【「田中角栄」追憶の証言者】常勝「田中王国」を支えた究極の組織選挙と地元愛――元越山会メンバー

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 史上最強の後援会と謳われた「越山会」は鉄の結束を誇り、最後まで「田中王国」を支え続けた。その凄まじいまでの組織選挙と、角栄が見せた地元愛について越山会メンバーが語る。

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田中角栄

「言うなれば、あの頃の新潟県民は田中角栄という“本尊”に、自分たちの夢を託していたわけです」

 そう述懐するのは、角栄と同じ刈羽郡(現・柏崎市)出身の三富佳一新潟県議(77)である。

「私が角栄さんと出会った1968年頃、日本は高度経済成長期に沸いていました。しかし、都市と地方の格差は一向に解消されないまま。そんな時、コネも学歴もない角栄さんが自民党の幹事長にまでなった。選挙で圧倒的な強さを発揮したのは、角栄さんが希望の星だったからです」

 そんな県民の期待感を、確実に“票”へと繋げたのが、一時は9万人を超える会員を擁した越山会だ。

 田中真紀子氏の元公設秘書で、角栄の選挙では“裏選対”として活動した須藤義雄氏(71)が振り返る。

「いざ選挙が始まると、“国家老”と呼ばれた地元筆頭秘書の本間幸一さんが指揮して、実働部隊の越山会のメンバーが戸別訪問に回ります。選挙事務所には役所の戸籍簿のように詳細な有権者名簿が並び、それを元に旧新潟3区内を“絨毯爆撃”するのです。しかも、1人の有権者に事前アンケートを5回も行い、5回とも田中支持に丸をつけた場合しか票数にカウントしない。選挙活動には越後交通の社員も動員され、2人1組のチームに分かれて1日に100軒ほどの戸別訪問をこなすこともあった」

 徹底した人海戦術と、飽くなき一票への執念が“王国”の礎となったのである。

「ただ、角栄先生の選挙における真骨頂は、やはり辻説法に尽きます」

 とは、三富氏と同じく「越山会三羽烏」の1人に数えられた、馬場潤一郎・元栃尾市長(75)だ。

「ロッキード事件が起きてから、先生が再び地元で選挙活動をすることになった。私もお供しましたが、選挙区内の100近い集落の情報が全て頭に入っているのには驚かされました。だからこそ、“昔、あの沢に落ちて死んだ人がいたね。道を改良するのに時間が掛かって大変だった”と、地元の人しか知らない話ができる。偉大な政治家がビールの空き箱の上に立ってそんな演説をすれば、住民たちは自然に感激してしまう」

 なかでも、馬場氏が忘れられないと語るのは、角栄が実刑判決を受けてから、わずか2カ月後に行われた1983年の総選挙だ。

「“ここで先生を終わらせていいのか”と越山会の誰もが死に物狂いでした。選挙戦が終盤に差し掛かった頃、新潟日報の記者が首を傾げていましてね。世論調査の結果、2人に1人が先生に投票するという。さすがにそんなことはないと思ったのですが……」

 結果は、自身最高となる22万票を集めてのトップ当選。世間に“大悪人”と罵られようと、郷里の人々は最後まで角栄に尽くした。

「ワイド特集 再び振り返る毀誉褒貶の政治家の魅力的実像 二十三回忌『田中角栄』追憶の証言者」より

週刊新潮 2015年12月17日号掲載

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