一周忌が済んで「高倉健」心の友に形見分けがされない不可思議
「巨星墜つ」から1年の、去る10日のことである。映画俳優・高倉健(享年83)の愛用品などを展示するイベントが紙上で告知された。一周忌が済んでのちの新たな動きだが、その一方で健さんの皺の数まで知悉(ちしつ)する心の友には、形見分けがされていないと言う。不可思議なこともあるものだ。
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健さんの本名は小田剛一で、【ごういち】と読む。両親からは【たけいち】と名付けられたが、高校進学時に【ごういち】を名乗るようになった。高倉健ではなく、【おだ・たけいち】として永遠の眠りについて1年、三回忌を機に戻ってくる。
『追悼特別展「高倉健」』なるこのイベントの主催は、毎日新聞と東日本鉄道文化財団。健さんの養女(51)も協力者に名を連ね、来年11月から再来年1月まで貴重な資料が全国を巡る。入場料は、「有料の予定」(財団)だという。
よく知られるように健さんは装うことが好きだった。
「ショップで、“お客さんいないの?” と、商品を棚ごと買ったこともあり、逆にお店を出せるほど、たくさんモノをお持ちでした」
と、映画関係者のひとりは言うし、別の関係者が、
「東映で任侠映画に出ていたころの初刷劇場用ポスターや小道具が、コンテナにあふれるほどありました」
と証言するとおり、それが追悼展で一部でもお披露目されるのなら、ファンでなくとも期して待たれるのだ。が、こう訝(いぶか)る声がある。
「『チーム高倉』への形見分けはどうなったのでしょうか」(同)
■“父の遺志”
40年以上に亘って、健さんを支えてきたこのチームの存在には「週刊新潮」(11月19日号)の特集で触れた。なかでもその統括者が、港区高輪のさる商業施設内にある理容店の店主で、冒頭に挙げた人物なのである。
加えて店内には4坪半ほどの“執務室”があった。旅やロケで東京を離れているときを除き、世田谷の自宅から愛車を駆ってそこへ“出勤”するのが健さんの多年の流儀だったのだ。
事実、野地秩嘉著『サービスの天才たち』(新潮新書)で、他ならぬ健さんが店主を、
「彼の顔を見るだけで安心して一日が過ごせる。彼と話をするために来る」
と評しているほど。もっとも、芸能関係者によると、
「部屋には高倉さんの洋服などが多く置かれていましたが、お店に形見分けはなかった。養女の方が、“それは、亡くなった父の遺志です”と話していたと聞いています」
むろん、すべての権利は養女が持つのだ。その判断に容喙(ようかい)などできはしない。
ところで、店主が初めて健さんのヘアメイクを手掛けたのは72年のこと。以降、
「映画に出演を決めた高倉健がまずやることとはこの店に行って髪型を調(ととの)え、役になりきることだった」(前掲書)
とあるから、その存在がなければ、後の名作は生まれることがなかったか、少なくとも形を変えていたに違いない。店主が知っているのは、健さんの皺の数ばかりではないのだ。
「ワイド特集 ふとどき者ほどよく眠る」より