USA「女子サッカー」はなぜあんなに強いのか――林壮一(ノンフィクションライター)
「あれは女のスポーツ」
筆者も96年より14年弱、アメリカ合衆国で生活したが、当地にサッカーが根付いていないことは感じた。私が住んでいたのは、ネヴァダ州リノ市という田舎街であった。NBAとMLBの下部チームが一つずつあり、渡米後しばらく通っていたネヴァダ州立大学リノ校で催されるアメリカン・フットボールの試合は、毎回スタディアムが満員になったが、同大学には女子サッカー部はあっても、男子サッカー部は存在しなかった。
「サッカー? あれは女のスポーツだ。男がやるもんじゃない」
フットボールの試合を一緒に観戦に行こうと誘って来たクラスメイトに、そんな言葉を投げかけられたことがある。男子がアメリカン・フットボールをやり、女子はサッカー。日本のソフトボールに近い位置づけのように感じたものだ。
アメリカン・フットボールへの愛着度とは裏腹に、サッカーの魅力を語る人間は少数派だ。移民の国であるアメリカには、英国、イタリア、フランス、ドイツといったサッカー先進国をルーツとする人間もいるが、文化になり切れていない。
サッカーを女のスポーツだと言い切った彼に感想を訊くと、こんな返事であった。
「なかなか点が入らずにイライラする。得点こそがスポーツの面白さだろう?」
逆に私が、試合中に何度もプレーが中断するアメリカン・フットボールの魅力が分からない、と告げると彼は、「この国で、サッカー好きは、“サック”って呼ばれて、ゲイを意味するんだぜ」と口を尖らせた。
94年に男子ワールドカップのホスト国となり、その後プロリーグをスタートして以来、日韓大会でベスト8、南アフリカ、ブラジルと2大会連続でベスト16と、男子代表チームもかなり力をつけてきたが、4大スポーツと呼ばれるNFL(アメリカン・フットボール)、NBA(バスケットボール)、MLB(ベースボール)、NHL(アイスホッケー)と比較すると、サッカーはアメリカ国内ではマイナースポーツでしかない。
それでも、現在、アメリカ女子代表のスターである、アレックス・モーガンは、スポンサーとの契約料と合わせて年間300万ドル(約3億7千万円)もの高収入を得ている。彼女たちは、世界一となりながらも、サッカー選手が日陰を歩かねばならなかったことを忘れていない。
モーガンやロイドが憧れたのが、アメリカ女子サッカー史上、唯一無二のスター、ミア・ハムである。
72年にアラバマ州で誕生したハムは、空軍に勤務する父の赴任先であったイタリア・フローレンスで、サッカーに目覚めた。中学時代は男子チームでプレーし、15歳にしてナショナルチームのメンバーに抜擢される。19歳で、91年の第1回女子ワールドカップに出場。全6試合中5戦スタメンでプレーし、世界一を掴んだ。この頃、彼女はノースキャロライナ大の学生であった。同校はバスケットボール界の巨星、マイケル・ジョーダンの母校でもある。ナショナルチーム代表メンバーの多くは大学生だった。当時の彼女たちにとって、サッカーは学業の傍ら行う趣味であった。ハムは93年にユニバーシアードの代表も兼任している。
ハムはワールドカップ4大会、五輪3大会に出場した。国際本大会で38試合のピッチに立ち、13ゴールを挙げている。アメリカ代表選手としてプレーした17年間で275の国際試合を戦い、158ゴール、144アシストの数字を残した。身長165センチと、恵まれた体躯ではなかったが、抜群のゴール嗅覚で合衆国代表を牽引。精神的にもタフで、苦しい局面で体を張るプレーが味方を勇気付けた。
96年のアトランタ五輪と、99年の女子ワールドカップで共に優勝したことから、01年、女子サッカーのプロリーグ、WUSA(ウーマンズ・ユナイティッド・サッカー・アソシエーション)が発足する。選手たちは趣味であったサッカーを、職業にすることができた。8チームが活動し、選手生活の晩年を迎えていたハムも澤穂希らと共にプレーする。しかし、興行成績は振るわず、同リーグは僅か3シーズンで消えている。
ハムが属したのは、ほとんどが代表であり、チームは引退間近の3シーズンのみであった。澤がコロラドやアトランタのクラブに在籍し、リーグの存続が危うくなって日本に帰国せざるを得なかったのに対し、ハムは企業からのスポンサードを受け、日々の食い扶持を心配することなく、代表チームでのプレーだけに専念できた。この特異な立場こそが、いかに彼女が傑出した選手であったかを現している。
ハムを中心とするサッカーのアメリカ女子代表が、初めて「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」「ロスアンジェルス・タイムズ」などの主要新聞で大きく扱われたのは、99年の第3回女子ワールドカップである。同大会はアメリカがホスト国であった。
決勝では9万人の観衆が見守るなか、PK戦の末、中国を下す。最後のキッカーとなったブランディ・チャスティンが、左足のシュートをゴールに突き刺し、黒いタンクトップ姿になって、自身のユニフォームを振り回した光景は、アメリカで最も権威のあるスポーツ誌「スポーツ・イラストレイティッド」の表紙に「YES!」というキャッチコピーで飾られ、いくつものTV番組で特集が組まれた。
この勝利を機に女子プロリーグが誕生したのだが、前記のように、ビジネスとして成り立たずに消滅。09年にも別の名、WPS(ウーマンズ・プロフェッショナル・サッカー)として再生したが、やはり3シーズンしか続かず、NWSL(ナショナル・ウーメンズ・サッカー・リーグ)に取って代わる。
経営難からリーグがなくなってしまうということは、選手たちが職を奪われ、路頭に迷うことを意味する。こうした事実が、アメリカ女子サッカー史を物語っている。99年の優勝は確かにニュースとなったが、事実上のプロ選手であったのはハムのみで、他の選手は食うために高校や大学のコーチをしたり、一般企業に勤務していた。好きなサッカーで身を立てるのが、彼女たちの夢であった。ブランディ・チャスティンは母国を離れ、日本のチームと契約した時期もある。
自国で催されたワールドカップでの勝利は、次世代の若者の心も擽(くすぐ)った。ハーバード大学在籍中にU21アメリカ代表に選出されたカイトリン・フィッシャーは、WUSAの誕生に心を躍らせ、地元ボストンのチームでプレーする夢を描く。
「6歳からサッカーを始めて、ずっと両親が練習場への送迎など、サポートを続けてくれました。99年の女子ワールドカップを観て、絶対にプロになろうと決めたんです。私は高校生でしたが、『これしかない!』って思いました」
が、フィッシャーが大学を卒業した2004年に、WUSAは消えうせていた。そこで22歳だった彼女はブラジルに渡り、あのペレがユニフォームを着たFCサントス女子部のプロ選手となる。
「名門、サントスの一員となれたことは誇りでした。でも、クラブの施設――グラウンドもカフェテリアも何もかも――、女子は使用を認められませんでした」
砂埃で覆われたでこぼこのグラウンドで試合をこなす日々。サッカー大国ブラジルで、この競技はあくまでも男のスポーツだった。サントスで2年を過ごしたフィッシャーは、スウェーデンのプロリーグからオファーを受けてプロ生活を継続するが、ほどなくホームシックで故郷に戻ることを決意。2009年にスタートしたWPSにチャレンジする。だが、リーグに明るい未来を感じることはできず、大学院に入学し、ジェンダーやグローバル教育を学ぶ。卒業後は母国とブラジルを行き来しながら、女性アスリートが活動しやすい環境を整えるべく、精力的に働いている。
「誰が女子プロリーグを作るのでしょう? スポンサーは? 取材者は? 若い女性選手の夢に関心がないのかしら」
彼女は今日も、陰で女子サッカー界を支える。現在の女子プロリーグはNIKE社からのスポンサードを受け、9チームが鎬を削っている。アメリカ女子代表メンバーは1名を除いて、全員がNWSLでプレーする。
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