「一億総活躍社会」なんのこっちゃ――小田嶋隆(コラムニスト・テクニカルライター)

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アイディアは叩かれてナンボ

「一億総活躍社会」というキャッチフレーズが誰の頭の中から最初に出てきた言葉であるのかは知らないが、ともあれ、こういうフレーズが閣内のどこかから、あるいは頂点からであれ、出てきてしまうことそのものは、よくある話だ。実際、われわれが平場で考えることの8割はダサい。これは仕方のないことだ。

 ただ、内閣官房のような集団は、個々のアイディアのダサさを、組織力でカバーすることでその優秀さを担保している。一人一人の能力の不足や性格の偏りを互いに補って、全体として、より優れた判断を可能ならしめているからこそ、チームはチームとして機能している。

 このフレーズを思いついたことそれ自体はさしたる問題ではない。問題は、このフレーズが、最終的に決定稿になりおおせてしまった経緯の中に埋もれている。

 風通しの良い組織なら、このレベルのダサいアイディアは、一番最初のたたき台の段階でツブされる。

「イチタ君それ古いよ」「うん。ダサくて寒気する」「っていうか、オレらの真意を疑われる恐れすらあるぞ。こんな国策標語丸出しのスローガン叫んだりしたら」「誰かもう少しマシなの無いの?」「とにかく『一億』から離れようぜ。鶏卵農家じゃないんだから」

 と、メンバー間の対話と議論のチャンネルが健全に機能している組織なら、こんなアイディアは、提出された瞬間に葬り去られる。私にも経験があるが、たとえば学生やニートが集まってバンドを組もうなどという時には、それはそれは恐ろしくダサいバンド名が列挙される。

「なんだこの『七円切手』ってのは」「『六文銭』を知っての狼藉か」「聞かないでも腐れフォークってことがわかるバンド名だな」「そうかなあ、『ローリングすってんてん』よりはずっと良いと思うけど」「それよりこの『うんこげ』ってのを考えたのは誰だ?」「オレだ。『げんこう』のアナグラムだ。ちょっとシブくないか?」「シブくねえよ。死ねよ」「賛成。死ね。骨は拾ってやるから死ね」

 実際、アイディアは、叩かれてナンボだ。叩かれなければ、アイディアは昇華することができない。というよりも、ゴミみたいなアイディアが大量淘汰された後でないと、マトモなアイディアは浮上して来ることができないものなのだ。

 私が懸念しているのは、「一億総活躍社会」というネーミングのダサさそのものではない。恐ろしいのは、あのダサいスローガンに誰もダメ出しできなかった官邸の機能不全であり、トップの発案に異論を唱えることが不可能になっている党内ガバナンスの硬直化なのだ。

「えー、これは、総理からですが、新内閣は『一億総活躍社会』というコンセプトで押し出して行こうと……」「……す、素晴らしい」「じょ、女性活躍をさらに推し進めた形ですね。見るところを見ていらっしゃる。さすがですさすがです」「まさにさざれ石のイワオとなりてコケッコーなお作とお見受けしました」「スガ君。さっきから黙ってるけどなんか異論があるのかな?」「……はい……あの、いいえ……大変によろしいのでは……なかろうか、と」「コーノ君はどうだ? ハギシリか?」「と、とんでもございません。進め一億火の玉の心意気でございます。感激に歯の根も合わぬゴマメかな、と」「じゃあ、全員一致ね」「はい」「うぇい」「うぇい」「いぇい」

 10人の人間が会議に集って、1人でも考えつきそうな結論に行き着くためには、全員が個々の能力を10分の1に低下させるか、でなければ1人を除く全員が黙っていなければならない。

 おそらく、官邸は、いま、鎖の一番弱い環が全体の強さを代表するタイプの組織に変貌しつつある。より具体的な言い方をするなら、特定の人間の愚かな決断に対して、誰も異論を唱えられない空気が、永田町を支配しつつあるということだ。うちの国の組織がセコい失策をやらかす時には、ほぼ必ず同じプロットにハマることになっている。問題は、ボスの無能さではない。ボスが無能であれ有能であれ、その人に対して誰もものが言えなくなる空気が組織の中に醸成されることこそが、致命的な集団自殺の兆候だということだ。

「一億総活躍社会」というフレーズが言外に物語っているのは「一億」の日本国民をひとかたまりの集合として扱おうとする態度だ。そして、取りも直さず、安倍さんが「取り戻そう」としている「日本」が、「八紘一宇」の「大日本帝国」の似姿であることを物語っている。

 で、その「一億総活躍社会」という、戦中の「一億総蹶起」とニュアンスにおいてほとんど区別のつかないフレーズを、なんの躊躇もなく掲げてしまうことのできる夜郎自大が、私には、なんだか不気味に感じられるのである。

 だって、批判や批評をはじめからまったく恐れていないわけだから。「活躍」もわからない。「一億総」もたいがい野放図な大風呂敷だが、「活躍」はそれ以上に粗雑かつ意味不明な政策フレーズだ。

 いったい誰が何をすることを指して、彼らは「活躍」と言っているのだろうか。

 おそらくこの言葉には、具体的な意味は無い。単に「女性活躍推進」という政権発足時に打ち出したスローガンを踏まえて踏み潰したものだ。あえて噛み砕いて説明してさしあげれば、

「女性だけでなく、老人も、子供も含めたすべての日本国民がそれぞれに活躍できる生き生きとした社会を」

 ほどのお話なのだと思う。

 うむ。オレみたいな親切なヤツが噛み砕いて言ってみると、悪い話ではない。

 ただ、好意的に解釈してはじめて意味を持つようなスローガンは、スローガンとして落第だ。本来なら、内閣がその発足にあたって掲げる言葉は、具体的な政策か、そうでなくてもせめて明確なゴールなり目標を語っていなければならない。「一億総活躍社会」がイメージさせるのは、せいぜい官邸のホームページに載っている昭和のPTA会報のほのぼの家族の団欒風景ぐらいなもので、ほとんどまったく具体的な政策を語っていない。

 第二次安倍内閣が「女性活躍」という耳慣れないキャッチフレーズを前面に押し出したのは、おそらく、首相をはじめとする閣内のメンバーが、「女性の社会進出」や「男女共同参画」といった、戦後社会が推進してきた女性政策を、快く思っていないからだ。

 で、彼らはより「家庭」寄りにシフトした女性の社会参加のあり方を提案するべく「活躍」という言葉を作って、それを女性政策の中心に据えた。

 で、その「活躍」がそのまま「女性専用」から「一億」に向けて転用されたのが、このたびの「一億総活躍社会」であるわけなのだが、そもそもが、「男女共同参画」を無力化せんとするたくらみが「女性活躍」であったところへ持ってきて、さらにそれを全国民に拡散した言葉である「一億総活躍」は、フレーズとして、ほぼ内実を持っていない。

 とはいえ、これはこれで、役人としては悪くない。というのも、予算要求用のマジックワードとしての国策スローガンは、曖昧なほど応用が利きやすく、意味不明なほど使い出があるからだ。

 てなわけで、高齢者医療も、保育園対策も、道路事業も、中小企業補助も、五輪特別予算も、すべては「一億総活躍社会実現のための特別予算」のひとつとして、デカいハンコを頂戴することになる。

 本当にそうなるのかどうかはともかく、そうなったらいいなあ、と、少なくとも官僚の皆さんは考えているだろう。

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