「一億総活躍社会」なんのこっちゃ――小田嶋隆(コラムニスト・テクニカルライター)
「一億総白痴化」という1957年に大宅壮一が放った流行語は、既に死語だ。理由は、われわれが白痴化しなかったからではない。総白痴化過程は、むしろほぼ完了しているのかもしれない。この言葉が死語になった事情は、白痴化という現象とは別の局面の話だ。
「一億総白痴化」という言葉が、事実上使用不能な状況に陥っているのは、われら一億が総偽善化したからだ。わたくしどものこの21世紀のちいちいぱっぱ社会では、過度に率直な言葉は使えない。「白痴」も、活字メディアではともかく、テレビではまず発音できない。スタジオの中の人たちは、「白痴」という言葉が、知的障害者への蔑視を含んでいるという視聴者からの抗議をあらかじめ織り込んだ心構えで放送原稿を書いている。だから、この種の言葉は書かれる前に予め削除され、発音に先立って既に封印されている。いかなる対象であれ、弱者への軽蔑を類推し得るような言い回しは、たとえ文豪ドストエフスキーの作品名であっても、放送の現場では、オートマチックに自粛されるということだ。
「白痴」の不穏当さに目をつぶるのだとしても、「一億総白痴化」は使い物にならない。差別がどうしたという話ではない。理由は、たったひとつ、「ダサい」からだ。
商品の広告文案として使うにしても、組織の運動方針として告知するのであっても、このフレーズはあまりにもダサい。まして、21世紀の政府が政策アピールとしてリリースするなんてことは到底考えられない――はずだったのだが、第三次安倍改造内閣は、この世にもダサいスローガンを高らかに掲げて、勇躍出帆した。なんということだろう。
この言葉をテレビ画面を通じてはじめて知った時、私は、手に持ったせんべいを中空に静止させたまま、およそ2秒ほどフリーズしたものだった。現在は、多少気を取り直したものの、驚きとは別に、空恐ろしさのようなものを感じ始めている。大げさに言っているのではない。私は恐怖にふるえている。
ダサさが人を殺すわけではない。みっともないということが、ただちに国を滅ぼすというものでもない。
ただ、国家が間違った方向に歩み出す時、その姿は、必ずある醜さを放射することになっている。醜いから滅びるという話をしているのではない。滅亡に向かって歩き始めた集団を一歩離れた地点から観察すると、その集団の最初の特徴は、まずダサさとして識別されるはずだということを私は申し上げている。
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