ボロキレ、ワラが紙になった時代/『ごみと日本人――衛生・勤倹・リサイクルからみる近代史』
幕末から明治初年にかけ、木綿のボロ(襤褸)は重要な輸出品だった由。そう聞かされても、なかなか得心がゆかない。なぜ汚いボロキレが、麗々しく輸出品になどなるのか。本書によって初めて理解できた。今は紙(洋紙)といえば木材パルプから作られるのがもっぱらだが、かつてはボロこそ製紙産業の主原料だったから、と。買いたたかれた日本のボロが、欧米に運ばれ紙となったのだ。
日本でも洋紙生産が始まると、王子など都市近郊に工場が建てられたのは、人口密集地でボロが集めやすかったからにほかならない。じつは戦前の日本では、もうひとつ身近なものが洋紙の原料として利用された。ワラ(藁)である。稲作国日本ではワラはすぐには捨てられず、ナワ、ムシロ、タワラ(俵)、カマス(叺)などに加工され、さんざん利用された最後に、燃料として燃やされ(灰はカリ肥料としてさらに利用)、洋紙原料として溶かされたりするのだ。いわゆる「ワラ半紙」である。
本書は、そんなエピソードをふくむ明治から敗戦にいたる近代日本のごみ事情を、主として衛生、貧困(経済)、昭和十年代に国家主導ですすめられた資源回収という三つの視点から眺めてゆく。
江戸が高度な循環型社会で、屎尿や生ごみが買い取られ、近郊農村部で肥料として利用されたのはよく知られる。つまり屎尿や生ごみはれっきとした商品。その基本は明治になっても変わらなかったが、社会は変わった。江戸から消費人口たる武士層の多くが消え、一時供給が間に合わなくなったり、西南戦争後の松方デフレで農村疲弊が進み、需要側に購入の余裕がなくなったり、あるいは北海道の魚肥など安い新肥料が流入するなど、要するに屎尿・生ごみが従来の商業ベースでは売れなくなる。するとたちどころに東京の裏町には汚水がにじみ、ごみの山が現出する。売れないものを善意で収集する民間業者などいないからだ。
折しも赤痢、チフス、ペスト、コレラなどの大流行もあって、政府はとうとう「汚物掃除法」(明治三十三年)を制定する。ごみの収集・処理における市の責任を明記し、衛生の確保を狙ったものだ。しかし屎尿処理は当分の間、今まで通りとされ、「なるべく焼却」の生ごみも民家から離れた場所に埋め立てるのがせいぜいで、同法以後、伝染病発生率が急激に下がったとする統計もないそうだ。
ごみをめぐって公が前面に出たのは、なんといっても昭和戦時下の資源回収だろう。国防婦人会、愛国婦人会、隣組などを通じてなされた不要物の一般回収(廃品回収)から、軍需工場以外の工場の機械、寺院の梵鐘、橋梁の欄干……など有用物の供出が命じられた特別回収(金属類非常回収)まで。廃品回収という言葉は戦後にも生き延びる。
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