山本夏彦『夏彦の写真コラム』傑作選 「人はいつまで無実か」(1998年9月)

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 すでに鬼籍に入ってしまったが、達人の「精神」は今も週刊新潮の中に脈々と息づいている。山本夏彦氏の『夏彦の写真コラム』。幾星霜を経てなお色あせない厳選「傑作コラム集」。

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 人はいつまで無実か? 露見(ろけん)するまで無実だ――と私は心得ているから、この一年来の高位高官の醜聞にも腹なんかたてなかった。笑った。ただ彼らは露見しただけで、まだ露見しない者どもはいずれほとぼりがさめるのを待っていると、はたしてほとぼりはさめるのである。

 検察というものには正義がある。自分を正義のかたまりだと思っているものほど始末の悪いものはない。だから検察の親玉は逮捕する前にい矛(ほこ)をおさめるか考えておかなければならないのに、いつも尻切れとんぼに終るのは考えていないせいである。

 それにつけてもあの何十もの段ボール箱は何だ。なかに証拠の品々がぎっしりつまっていると言いたげだが、そんなものとっくに抜き去ってある。あれは「やらせ」である。よくまあ毎回あんな手遅れの写真をのせられるものだ。ファイルしてある五年前の、また十年前の写真を次回からは載せるがいい。

 一億に近い金を貰ったのなら逮捕する、七千万五千万までで打切るという指令が出てない。三年間で二百五十万までの宴をあばくのはあばきすぎである。今どき一人一万円で出来る接待なんてありはしない。しかも三年間とすれば客は三人として一回当りいくらに当るか、有志は勘定してみてくれ。ついにはビール券をもらったのまで公表する。金品を断られたからビール券にしたのだ。潔白の証拠じゃないか。

 ノーパンしゃぶしゃぶが明るみに出たのには笑った。吉行淳之介は「それにつけても金のほしさよ」の代りに「みんな赤線がなくなったせいだ」と結ぶがいいと言った。

 戦前は花柳界に待合(まちあい)があってここでは政界財界のお歴々の談合が行われた。給仕の芸者や女将から話は絶対に洩れなかった。だから待合政治といったのである。さて談合がすんだら遊びの席に変るが、そのとき半玉をずらりと並べ「浅い川」だの「雨しょぼ」だのを踊らせる。浅い川なら膝までまくれ、深くなるほど順々にまくって、しまいに尻に達するノーパンしゃぶしゃぶはその代用品だろう。そんなもの新聞沙汰になることはなかった。

 古くはケネディ近くはクリントンを見よ。英雄色を好むというが、英雄でなくとも好む。露見しないうちはきれいな口をきくから人生教師になるなかれと再三言うのだ。教師になったら白昼うそをつかなければならない。同僚や上役には非の打ちどころのない小学校の先生が女生徒にわいせつ行為を働いたという。これだって露見しないかぎり死ぬまで申しぶんない先生なのだ。

 人を清く正しく美しい存在だと思うな。人は劣情によって動き、したがって政治も劣情によって動く。「留守と言え ここには誰も居らぬと言え 五億年経ったら帰って来る」と言った詩人高橋新吉は「精神病者の多い町」の末尾を次のように結んだ。――世の中は何にたとえん、皮肉でもあれば又、切実でもあるし、世の中なんて一片の細菌培養肉だと思わねばならぬと思ったのである。

「鬼籍に入った達人『山口瞳』『山本夏彦』 三千世界を袈裟切りにした『傑作コラム集』」より

週刊新潮 2015年8月6日通巻3000号記念特大号掲載

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