『昭和天皇実録』に記載されなかった真実 「英国情報工作員」とも引見した「昭和天皇」復興のインテリジェンス――徳本栄一郎(ジャーナリスト)
■強い親英感情
このフロジャックとは明治末期に来日し、結核患者の療養施設建設など社会福祉に携わったフランス人神父だ。敗戦直後に天皇に数回拝謁した彼は48年3月に40年ぶりに欧州を訪れるが、ある重要な使命を帯びていた。バチカンに天皇のメッセージを伝え、ローマ教皇の署名入り写真を持ち帰る事だった。
その夏にフロジャックは再び天皇に拝謁して教皇の写真を献上したが、この直後、バチカンの英国公使館がロンドンの英外務省に報告を送っている。フロジャックの動きを察知した公使館は教皇庁幹部を通じて彼の目的を調べたらしい。
「ローマを訪れたフロジャックは教皇に謁見し、天皇からのメッセージを渡した。彼は返礼として教皇の写真を渡す事を希望し、それに教皇も同意したという」「ローマ教皇は、われわれの旧敵国への支持でしばしば非難されてきた。(親書交換は)些細な出来事だが、報告に値すると判断する」(48年7月6日、英外務省文書)
戦争が終結したとはいえ、全世界のカトリック教徒の頂点と天皇の接触に英国は神経を尖らせたようだ。そしてこの時期、天皇はもう一人、欧米で大きな影響力を持つ人物に接近していた。英国王ジョージ6世である。『実録』によると、フロジャックに教皇へのメッセージを託した翌日の48年1月24日、天皇はある英国人外交官を引見した。マイルス・キラーン卿、シンガポール駐在の東南アジア特別弁務官で駐エジプト大使などを歴任した人物だ。
明治末期に駐日大使館に勤務し、皇太子時代の天皇が訪英した際はスコットランドに同行している。『実録』では単に引見の事実しか書いていないが、英外務省の記録を読むと天皇の真の狙いが分かる。
「明らかに天皇は戦後初めて英国の旧友を迎えた事を歓迎していた」「天皇は先の戦争を遺憾に思っている事、自分は常に反対だったが周囲の環境や状況に逆らえなかったと断定的に語った」「言葉には発しなかったが天皇は強い親英感情を抱き、再び英国とのコンタクトを得て心から喜んでいた」(48年1月25日、英外務省文書)
そして引見の最後に天皇はキラーン卿にある依頼をした。自分からぜひ英国王夫妻に挨拶の書簡を送りたいという。この思わぬ申し出に英国政府は少なからず慌てた。
当時、天皇と外部の接触はGHQが厳重に監視し、外国元首への書簡も検閲していた。もし国王との接触がマッカーサーの不興を買えば英米関係に影響する。また英国にとって日本はまだ講和条約も調印していない敵国だった。日本軍による捕虜虐待で対日感情は悪く、天皇と親密な印象は世論を刺激しかねない。結局、英外務省はバッキンガム宮殿と協議し、天皇の弟の秩父宮を通じて口頭でジョージ6世のメッセージが届けられたのだった。
このように占領期の天皇はフロジャック神父、キラーン卿など信頼できる人間を通じ、あらゆるルートで外部と接触を図った。GHQに対抗するにはローマ教皇や英国王は強力な援軍に映ったはずだ。宮中で天皇は必死に孤独な戦いを続けていたのだった。
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