【元少年A『絶歌』】憤然と私はこの書を否定する!――徳岡孝夫(ジャーナリスト)
匿名性というベールで覆われた歪(いびつ)な舞台。元少年Aは事件を語る手記を発表することで、そのど真ん中に立ち、スポットライトを浴びながら、再び“ゲームを始めた”つもりでしょうか。
最初に断っておきますが、私は彼の手記を読んでいませんし、これから読むつもりもありません。確かに民主主義の社会では、言論の自由、表現の自由というのは、絶対的な条件とされます。しかしそれが保障されているからといって、無制限ではありません。民主主義国家にあっても、満員の映画館の中で、“火事だ!”と虚偽の言葉を叫ぶ自由は誰にも与えられていない。
土師淳君のご尊父は、元少年Aに本を出版しないでほしいと要請していました。誰が、愛する我が子を残酷に殺害されたことや、亡骸を弄(もてあそ)ばれたことをあからさまに記す書物を読みたいと思うでしょうか。
版元の太田出版は、今般の出版について、「社会は、彼のような犯罪を起こさないため、起こさせないため、そこで何があったのか、たとえそれが醜悪なものであったとしても、見つめ考える必要がある」旨、主張しているそうです。太田出版には、いつから“防犯課”ができたのでしょうか。彼らには、皮肉を込めて、こんな言葉をかけたい。
「そういう正義もあるんですね。結構な世の中です」
そもそも人間が自身の心の中を表現しようとする時、その方法は決して、書籍出版だけではないはずです。元少年Aの場合なら、ご遺族に対する手紙でも良かった。広く一般に伝えたいなら、講演活動で全国行脚しても良いはずだった。その点、書籍というのは、匿名性を担保するうえで、実に便利なものなのです。
手記には、猫を殺す解剖シーンも細かく描写されていると聞きました。それで思い出したことがあります。
1970年代、私はある取材で、ニューヨークを訪れたことがあった。その折、『午後の曳航』という映画を観る機会を得ました。ご存じ、原作は、横浜・山手を舞台にした三島由紀夫の長編小説ですが、映画ではスコットランドの漁村に設定されていた。しかし内容は原作に忠実で、少年たちが猫を解剖するシーンも再現されていました。猫の首にナイフの刃が突き立てられ、内側の赤い肉がリアルにスクリーンに映し出される。その刹那、一人のおばあさんが突然席を立ち、憤然と床を踏み鳴らして、映画館から出て行ってしまったのです。このご婦人はこうすることで、グロテスクな“悪趣味”に、NOを突きつけた。私もこの時のご婦人のように、憤然として、売り場に並ぶ『絶歌』を無視し、手を伸ばさないという消極的行為によって、この書を否定したいと思います。
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