「世界禁煙デー」が火をつける喫煙弾圧は正義か
「煙草は私の6本目の指」。女優の淡路恵子さんは生前、こう言って憚(はばか)らなかった。吸うも良し、吸わぬも良し。個人の嗜好(しこう)の問題だ。しかし、「世界禁煙デー」が設けられた今、「喫煙弾圧」が、さも当然の如く進んでいる。煙草を吸わない――それは本当に正義なのか。
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「何とかしろ。俺は知らん」
「吐いて」捨ててやりたいほど理不尽な上司からの無茶ぶり指令に耐え、どうにか出張を終えた。ボロ雑巾と化した心身に、帰路の飛行機移動が追い打ちをかける。エコノミークラス席に縛られた身体には、洗い落としがたい疲労がこびりついている。
着陸、帰還。ようやく束縛から解放され、全神経がただ一つのものを希求する。
〈とにかく一服したい〉
くたびれた身体をひきずり、空港の隅っこに押しやられた喫煙ブースヘと駆け込む。火をつける。紫煙をくゆらせる。肺が歓喜に咽(むせ)び泣く。
〈生きていて、本当に良かった〉
「小確幸」。村上春樹が名付けた、ささやかながら確かな手触りを伴った幸福。この一服こそ、まさに小確幸であろう。
だが次の瞬間、喫煙ブースのガラス越しに、自分を激しく射る視線に気付く。
〈うっわ、ヤダ。あの人、ダッさ、臭(く)っさ〉
強力な空気清浄器のおかげで、煙は露ほども喫煙ブース外に吐き出されていない。たばこ税もちゃんと納めている。それなのに、刺すような蔑(さげす)みの眼差し……。
〈劣等人間〉
こんなレッテルを貼られ、ガラスケースの中に「展示」されているかのようだ。これではまるで、「人間動物園」ではないか。
嗚呼、神よ。喫煙者には小確幸を噛みしめることすら許されないのか。天は人の上に人を造り賜(たま)いしか!
――5月31日は世界禁煙デーだった。WHO(世界保健機関)が1988年に定めたこの「記念日」の影響もあって、冒頭で紹介した、少なからぬ喫煙者が共有するであろう「差別目線体験談」に象徴されるような、彼らへの白眼視は止まない。政治家も財界人も口を開けば「ダイバーシティ(多様性)」の重要性を説き、LGBT(性的少数者)の権利が尊重される現代において、喫煙者には小確幸さえ認められない風潮が広がっている。世に言う禁煙ファシズムだ。
「僕は、世界禁煙デーを『ヒトラーの日』と名付けたい」
と憤るのは、大ヒットゲーム『ドラゴンクエスト』の音楽を手掛け、愛煙家として知られる作曲家のすぎやまこういち氏である。
「世界で初めて禁煙運動を展開したのは、誰あろうアドルフ・ヒトラーです。禁煙運動は全体主義の走りであり、ファシズム以外の何物でもない。また、仮に今後、喫煙が法律で禁じられるような事態になれば、儲かるのは闇勢力です。アメリカで禁酒法が制定された時に、マフィアが暗躍・増長したことでそれは実証されている。そうならないためにも、私はしっかりと『喫煙運動』を続けていきたいと思っています」
1日30本は吸うというすぎやま氏だが、
「僕は理系人間です。したがって、事実を基にして結論を出すことを重要視しています。では、煙草はどうか。日本人の喫煙率は年々下がっているのに、肺癌の罹患率は上がっている。煙草が本当に肺癌の原因なのであれば、肺癌罹患率も下がっていなければおかしい。この一点をもってしても、『煙草は肺に悪い』との固定概念は間違っていると言わざるを得ません。それなのに、『煙草は肺に悪くない』と口にするだけで叩かれてしまう。これをファシズムと言わずして、何をファシズムと言うのでしょうか」
指に煙草を挟みつつ、こう力説するすぎやま氏はさらに、専門の音楽にたとえてこんな話を披露する。
「僕にとっての煙草は音楽で言うところの休止符。休止符がなければメロディーは成立しないように、僕の仕事も休止符、つまり一服がなければ成り立ちません。当然、作曲の際も煙草を吸っています。ドラゴンクエストの曲も、『休止符』があってこそ作れたと言って差し支えありません」
■「相対性理論も…」
すぎやま氏の例を持ち出すまでもなく、喫煙と文化・芸術は切っても切り離せない関係にある。
ハンフリー・ボガートが煙草なしにイングリッド・バーグマンを口説く『カサブランカ』はクリープのない珈琲と同じだし、煙草を咥(くわ)えていない伝説のカメラマン、ロバート・キャパのポートレートなど、サビ抜きの寿司と同様でガキ臭いことこの上ない。また89年の参院選で自民党が惨敗を喫した際、当時の橋本龍太郎幹事長が、愛飲する「チェリー」を吹かしながら、「ちっきしょう」と苦虫を噛み潰したシーンは、戦後政治史を彩る味わい深い名場面の一つだ。
なお、2013年度のたばこ税収は約2兆3500億円に上り、消費税1%分に相当すると見られていて、煙草は財政面でも社会構造にしっかりと組み込まれている。
「24時間、パイプを手にしている」と語る、ジャーナリストの堤堯氏が煙草文化論を説く。
「脳味噌の栄養になるものはニコチンと糖分の2つしかないと言われ、現に多くの発明や発見、芸術は紫煙とともに生み出されてきました。アインシュタインの相対性理論もプッチーニのオペラも、チェーンスモーカーだった彼らによる産物です。プッチーニ(1858~1924年)の生家を訪ねた際、パイプを吸っていた私に向けてガイドが、『彼は煙草の吸いすぎで死んだ』と言ってニヤリと笑っていましたが、あれだけ数多くの名作を残して亡くなれば、それはもう本望じゃないですか」
こうして、文化として根付いてきた煙草だが、先にすぎやま氏が言及した通り、喫煙率は低下の一途を辿っていて、喫煙者は「抹殺」されかかっている状況だ。かつては大人の嗜(たしな)みであった喫煙の率は、1966年に成人男性で83・7%、女性は18%だったが、昨年は男性で30・3%、女性が9・8%に低下している。男女合わせると、66年の49・4%から昨年の19・7%と「少喫化」が著しい(いずれもJT調査)。その大きな要因の一つは、「煙草害悪論」であろう。
「昔、煙草を吸っていたらJASRAC(日本音楽著作権協会)の禁煙主義者の理事に、『君は自殺したいのか!』と怒鳴り込まれた経験がある」
と、すぎやま氏は振り返る。無論、喫煙者は「休止符」を打ちたいだけで、人生の終止符を打つつもりなどないのだが、兎(と)にも角(かく)にも煙草は身体に悪いと決め付けられている。しかし、
「私は東京都受動喫煙防止対策検討会の委員を務めていますが、その会で禁煙推進派が依拠している通称『平山論文』は、統計学的に、とうの昔に正当性が否定されています」
と、順天堂大医学部特任教授の奥村康氏は反論する。
「1981年に発表された平山論文は、喫煙者と非喫煙者をそれぞれ10万人調査し、そのうち何%が肺癌で亡くなったかを調べたものです。前者が0・107%で後者は0・024%。この数字をもとに禁煙推進派は、喫煙者は非喫煙者より4・45倍も肺癌死亡率が高い、ゆえに煙草は身体に悪いと胸を張っていますが、10万人のうちの107人と24人といえば、これはもうほとんど誤差の範囲でしょう。『喫煙者も非喫煙者も、肺癌死亡率は0・1%前後と極めて低かった』と評価するのが適当です」
しかも、喫煙文化研究会事務局長の山森貴司氏曰く、
「平山論文では、喫煙によって肺癌になったのか、あるいは例えば排気ガスの影響で肺癌になったのか不明です。それでも、禁煙推進派は煙草は身体に悪いとして絶対に譲らない。我々も、『煙草は身体に良い』だなんて思っていません。それを分かった上で煙草を嗜好品として楽しんでいるのに、禁煙推進派は善人面して自分たちの価値観を押し付けてくる。無論、我々は煙草を吸えと他人に強要などしていません。要は、分煙をしっかりすればいいだけの極めて単純な話だと思うんですけどね」
「加えて言えば……」として、山森氏が続ける。
「元喫煙者ほど我々を激しく糾弾してきます。『俺も昔は吸っていたから分かるけど、健康に良くないよ。人に迷惑かけちゃいけない。悪いこと言わないからさ』なんて、したり顔で批判してきますが、マナーは守っているし、我々は煙草の何たるかを承知の上で吸っている。それなのに、禁煙した人間は他人に迷惑をかけない進んだ人種で、喫煙者は遅れた人種であるかのように、『元同じ穴のムジナ』が見下してくるんです」
ちなみに、前出の奥村氏が説明するには、
「2011年に『国立がん研究センター』が発表した調査では、受動喫煙による発癌リスクは1・02~1・03倍なのに対して、野菜不足による発癌リスクは1・06倍。以下、塩分の取りすぎが1・11~1・15倍、運動不足が1・15~1・19倍、肥満が1・22倍、やせすぎが1・29倍、飲酒が1・4倍となっている。煙草の煙より酒のほうが、よほど身体に悪いと言えます」
酒場で「喫煙者=遅れた奴」談義に花を咲かせ、本稿を肴(さかな)にしている禁煙家諸氏には、即、その場を離れることをお勧めする。
■かつては大らかな時代
それでも、喫煙者を狙い撃ちにした禁煙運動の「先鋭化」が止むことはない。今年の世界禁煙デーにあわせた禁煙週間(5月31日~6月6日)のテーマは、
〈2020年、スモークフリーの国を目指して~東京オリンピック・パラリンピックへ向けて~〉
禁煙運動は、ついに五輪まで錦の御旗に利用し始めたわけだ。障害者の祭典であるパラリンピックはまさにダイバーシティの象徴と言えよう。にも拘(かかわ)らず、喫煙という多様性だけは認めないとは、これ如何に。
また一昨年の世界禁煙デーの記念イベントでは、禁煙大使なるものに選ばれた女子プロゴルファーの東尾理子氏が父親の東尾修氏にその場で電話して、彼に禁煙を強要する「パフォーマンス」が行われている。
東尾家が「禁煙は人としてのマナー」と説教を垂れたいのであれば、「一家」の一員である石田純一氏に、人前では靴下を穿(は)くのが礼儀であり、「不倫は文化」などと頽廃を推奨する言動を慎(つつし)むよう、まずは彼を啓蒙するのが先の気もするが、とまれ、前出の山森氏が体験した「禁煙運動の恐怖」は看過できるものではない。
「『死ね』『人殺し』といったメールが月に数通は届きますし、ホテルで喫煙に関するシンポジウムを開こうとしたら、禁煙団体からそのホテルに大量のクレームが入ったこともあった。我々に直接意見するならまだしも、ホテルに圧力をかけてシンポジウムを潰そうとする発想には愕然としました。もはや、表現や思想の自由の侵害であり、差別です。繰り返しになりますが、我々は禁煙推進派に対して何かを強要する気はありませんし、吸いたくないのであれば吸わなければいい。一方で我々は迷惑にならない場所で煙草を吸う。それでいいじゃないですか」
かつては大らかな時代だったのに、なぜこうなってしまったのか。なにしろ、79年制作の名画『エイリアン』では、宇宙船の中で永い「冷凍睡眠」から目覚めた船員たちが、船内で真っ先にコーヒーと一緒に紫煙で一服のひと時を楽しんでいたのである。この映画に目くじらを立てる人がいたとの話は寡聞にして知らない。宇宙船でも喫煙可の時代から、喫煙シンポジウムすら弾圧する時代に……。思えば遠くへ来たものだ。
■「正義の押し売り」
「私はもう数十年前に煙草を止めました。率直に言って、今は喫煙者に対して必ずしも好意的ではありません。禁煙空間が広がっていく状況を歓迎すらしています。他方で、禁煙という名の社会的圧力が強まっているのは成熟社会の危機だとも感じています」
と、行きすぎた禁煙運動に警鐘を鳴らすのは、国際日本文化研究センター名誉教授である宗教学者の山折哲雄氏だ。
「今の世の中、あまりに豊かになりすぎたせいなのか、個性の尊重なる上滑りした議論が持て囃されているせいなのか、自分の欲望のままに、何でもかんでもやりたい放題になっている。電車の中で飲み食いしたり、化粧をしたり、あるいはヘイトスピーチもそうです」
山折氏の含蓄ある話に、もう少し耳を傾けてみよう。
「自分の気に入らないものは絶対に許さないという意味で、ヘイトスピーチは欲望の解放運動と言えます。こうした欲望全開社会は、滅びの道を歩むことになるのではないでしょうか。私たちには、『他者』を容認する我慢が求められているんです。自分の欲望の赴くままに他者、すなわち喫煙者を批判していては、この世界は常に火花散る社会と化してしまいます。喫煙者も既に我慢しているではないですか。あんなに窮屈な喫煙スペースに押し込められて、可哀そうに」
1日4、5箱は吸うという漫画家の黒鉄ヒロシ氏が後を受ける。
「公衆の面前で、親子タッグで第三者に禁煙を勧めた一家がいたそうですが、余計なお世話もいいところです。彼らは自分たちが正義だと信じて疑わない。正義を声高に叫ぶ者ほど信用できないものですが、禁煙運動の気色悪さはこの『正義の押し売り』にあります」
黒鉄氏が、禁煙推進派を諭すように説明を続ける。
「だいたい、五輪という名の外圧をダシに禁煙を推し進めようだなんて、これは欧米列強の植民地化政策に唯々諾々と従うようなもの。進んでいる俺たちが『未開』のアジアを導いてやるんだという欧米の発想と、今の禁煙運動家の喫煙者に対する行為は同じです。植民地化によって不幸になる人がいる現実を想像だにしない。この傲慢さに気付こうともしていないのが今の禁煙運動家です。ヒステリックにならず、喫煙者と非喫煙者が、双方の自己責任と自己判断を認めて共生の道を探るのが成熟社会の大人というものでしょう」
「マイルドセブン」が「メビウス」に変わったのも、EUが煙草に「マイルド」の表示を禁じたことが一因であるのは否めないと分析されており、これぞ「植民地化」であろう。海外は海外、日本は日本。マナーを守って吸うも自由、吸わぬも自由。全ては己が自己判断。とてもシンプルな話ではないか。何はともあれ、先に山折氏が指摘したように、喫煙派も禁煙推進派も「我慢」が肝要だ。
愛煙家の1人で、『バカの壁』(新潮新書)の著者である東大名誉教授の養老孟司氏が総括する。
「俯瞰してみれば、禁煙運動というものは喫煙者がいるからこそ成り立っているのであって、喫煙者なしには存在し得ないわけです。この世から煙草が消えたら、禁煙運動家はどうするのか……。まあ、お互い末永く頑張りましよう」
喫煙者も非喫煙者も、ともに怒りの導火線にマッチを擦(す)ることなく、紫煙の如くふわふわと、緩(ゆる)やかに共存共栄していく。こうした大人の判断に基づいた嗜みを許さない禁煙圧力が、喫煙派にはどうにも理解できず、また1本、新たな煙草に火をつけながら呻吟(しんぎん)することになるのである――。
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