ブラジルでひっそりと逝った「明治天皇の孫」
ブラジルに日本人移民が初めて到着したのは、1908年のこと。以来、移民は戦前に19万人弱、戦後に5万人余を数えるが、中には明治天皇の孫もいた。
4月15日、サンパウロの自宅で逝去した多羅間(たらま)俊彦さんがそのお方だ。享年86。
1929年、後に首相を務めた東久邇宮稔彦(なるひこ)王の四男として誕生。母親は明治天皇第九皇女の聰子内親王。つまり明治天皇の孫で昭和天皇の従弟にあたる。
47年10月、秩父、高松、三笠の三直宮(じきみや)を除く11宮家、51人が皇籍を離脱。俊彦さんは慶應義塾大学法学部を卒業後、51年に元サンパウロ総領事の多羅間鉄輔さんの未亡人で、広大なコーヒー園を持つキヌさんの養子になり、ブラジルに渡った。
俊彦さん本人は、小誌に〈皇籍を剥奪されても、特に何も感じませんでした。これでようやく身軽になれると思いました〉などと当時を振り返っている。
皇籍を離れ、一農民になる意志で移民になったのに、ブラジルの日本人社会は天孫降臨だと大騒ぎで迎えた。
「日本人同士で敗戦を信じない『勝ち組』と『負け組』の対立がありましたから、元皇族が移民で来たことで、本当に負けたと悲しむ人もいたそうです」(ブラジルに詳しいジャーナリスト)
コーヒー園の経営の後、外国からブラジルに進出する企業向けの不動産業を手がけた。沖縄出身の移民の娘と現地で結婚、1男を授かる。迷わずブラジルに帰化、普段はポルトガル語を使う。
「腰が低く、日系人の親睦会のまとめ役をなさったりして、尊敬を集めていた」(同)
2008年、皇太子殿下のブラジル御訪問の際には、懇談の席で「両陛下からよろしくとのことでした」とお言葉を賜っている。
日本よりブラジルが落ち着くと言いながらも、皇室の慶弔に礼を尽くしてきた。