そして、リヴェンジは果たされた――「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(書評:平野啓一郎)

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木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

 木村政彦は、生き恥さらした男である。――武田泰淳の『司馬遷』の有名な冒頭に倣ったそんな一文が、私の頭を何度か過ぎった。

 司馬遷は、恐るべき恥辱を受けた後に、「徹底的に大きな事を考え」、成し遂げた。彼は『史記』を著し、歴史を書いた。木村政彦は無論、歴史を書いたわけではない。歴史を書いたのは、彼を心から敬愛し、その恥辱を我が事として受け止めた著者の増田俊也氏である。物々しいタイトルに怯む事なかれ。これはまさしく魂の仕事である。

 そもそも、木村政彦とは誰なのか?

 戦後すぐに、白黒テレビでプロレスを見ていた世代にとって、木村政彦とは、力道山の格下のタッグ・パートナーだった。その印象は、「昭和の巌流島決戦」と呼ばれた直接対決で、木村が力道山に無惨なKO負けを喫したことで決定的となる。それが木村の人生最大の恥辱である。

 ある者たちは、いつまでも弱い木村を記憶し続けた。またある者たちは、ほどなく木村という男がいたこと自体を忘れた。試合を見なかった後の世代は、そもそも彼を知らない。

 しかし、格闘技関係者、取り分け柔道家にとっては、断じてそうではなかった。彼らにとっての木村政彦とは、戦前、全日本選手権を三連覇し、天覧試合を制した不世出の柔道家であり、「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と言われた伝説的な存在である。

 柔道と言っても、古流柔術をベースとする木村のそれは、相手を仕留めるための実践的なものである。「腕緘み(=キムラロック)」という必殺技を始め、多種多様な絞め技、関節技を創造し、ジャンルを超えて、空手や合気道、ボクシングと、あらゆる技術を貪婪に吸収した。彼は、当時の日本最強の格闘家として描かれ、或いは世界最強だったのかもしれないとさえ想像させる。

 そんな木村政彦が、なぜ負けたのか? 答えは、力道山の“裏切り”である。「昭和の巌流島決戦」は、飽くまでプロレスであり、真剣勝負ではなかった。事前の取り決めでは、三本勝負で引き分けとすることになっていた。ところが、試合中に突然、力道山が約束を反故にし、不意打ちで木村をKOしたのである。結果、力道山は国民的スターの地位を確固とし、木村政彦は落ちぶれた。戦後、プロ柔道興行に参加し、プロレスまで行っていた木村の名前は、講道館の柔道の歴史からも、未だ抹殺されたままである。

 あれはだから、木村政彦が力道山に負けた、ということではない。最初から真剣勝負だったならば、負けるはずがない。なぜなら、あの木村政彦なのだから。――自らも柔道家である著者は、この一念に衝き動かされて、十年もの歳月を執筆に費やすこととなる。

 汚名を雪ぐ時は満ちていた。木村政彦の名前は、90年代以後の格闘技のブームの中で、突如復活していた。彼は実は、かのグレイシー柔術の創始者エリオを相手に、若かりし日に、完膚無きまでの勝利を挙げていた。ヒクソンやホイスといったエリオの息子達が、その後、格闘技界を席巻し、「キムラ」へのリスペクトを表明するや、新しい、若い格闘技ファンの間では、彼は俄かに神格化されてゆく。

 増田氏は、膨大な資料を渉猟し、関係者に取材して、木村政彦という一人の人間の姿を描き出す。「鬼の柔道」と恐れられた師牛島辰熊の壮絶な指導により作り上げられた最強の男は、しかし、強すぎることに人生を翻弄されてゆく。背景に、戦争があり、戦後がある。格闘技の歴史がある。プロレスの誕生と力道山という男の出現がある。緻密な考証とともに、丹念に進められてゆく筆は、最初から単なる礼讃本とは一線を画しているが、それ以上に、知らず識らず、残酷な事実を証してゆく。

 あれはやはり、木村が負けたのである。――この絶望的な認識に到達した著者の態度は厳しい。しかし、そこにこそ決してショーではない、真剣勝負としてのノンフィクションのド迫力がある。そして、生き恥をさらし続けた木村に対して、著者は最後まで、爽やかな憧れと敬愛の念を捨てない。その目差しのやさしさが読者の胸を打つ。

 この本には、やるせなさが満ちている。しかし同時に、この本は救いである。

 木村政彦は、最後に勝利した。彼はその魅力によって復活した。リヴェンジはここに、ペンによって果たされた。

※この書評は単行本刊行時に雑誌『波』に掲載されたものです。

平野啓一郎 作家

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