亭主関白「天龍源一郎」にプロレス引退を決意させた「猛烈な妻」の闘病
アイスペールに、高級ブランデーのヘネシーやビールだけでなく、タバスコまでぶち込んで一気飲み。天龍源一郎(65)は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両者からフォールを奪った唯一の日本人レスラーとして知られている。飲み屋でも昭和のレスラーらしく豪快さを貫く男が、引退を決意したのは意外な理由からだった。
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プロレスの聖地と呼ばれる東京・水道橋の後楽園ホール。その展示場で、天龍が2月9日に記者会見を開き、今年11月の引退を明らかにした。引退理由を記者から問われると、天龍はバラエティ番組などでお馴染みのかすれ声でこう答えたのである。
「一番支えてくれた家内の病気があったので、今、身を引いて今度は俺が支えていく番だと思った」
1982年、天龍は知人の紹介でまき代さん(58)と知り合い、わずか半年余りでゴールイン。本誌の結婚欄でも、2人の馴れ初めを取り上げている。記事によれば、まき代さんの父親は、京都市内で建設会社などを手広く経営する資産家。お嬢様育ちの彼女は、天龍と一緒になったことで、猛烈妻に生まれ変わったのだという。ベテランプロレスライターの解説では、
「天龍は13歳で二所ノ関部屋に入門して、26歳でジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入団しました。レスラーとしては超一流ですが、金銭感覚はゼロ。まき代さんが、彼のファイトマネーの交渉やスケジュール管理を一手に握っていたのです」
試合のオファーをするため、彼女と交渉した経験を持つ、元新日本プロレス取締役の永島勝司氏がこう振り返る。
「まき代さんはタフネゴシエーターで、本当に勉強になりました。ギャラの支払日の確認に始まり、次の試合の出場を考えているかなど細かいことを矢継ぎ早に聞いてきたのです。あれだけ旦那のことをきちんと管理している奥さんで思い出されるのは、プロレス界ではジャイアント馬場夫人の元子さんくらいではないでしょうか」
■靴下を履かせる
長女の嶋田紋奈(あやな)さんが明かすには、天龍はかなりの亭主関白だったという。
「うちは昭和の家庭という感じでした。母は父に靴下も履かせていたし、父がどんなに遅く帰ってきても母は必ず起きて待っていました。父は地方興行が多くてあまり家に帰ってこなかったので、母子家庭のようでしたが、母は毎日のように“お父さんは、私たちのために戦ってくれているの”と誇らしげに話していました。それで私も父を尊敬できたのだと思います」
試合が終わり落ち着きを取り戻す午後10時前後、亭主関白の天龍も必ず自宅へ電話していた。その時、まき代さんは受話器に向かって“ケガはありませんでしたか”と聞いていたという。5年前、そんな彼女を病魔が襲ったのである。
「母が乳がんになって手術をした後、放射線治療を受けていましたが、昨年3月に再び具合が悪くなってしまいました。病院へ行ったら、肺に水が一杯溜まっていて即入院。お医者さんは、あと1日遅れていたら、危なかったと言っていました。その後、母は実家の京都へ引っ越しましたが、昨年7月に胆石症で再び入院。手術の日、父は次の日に試合があったのに日帰りで京都へ行きましたが、しんどかったと思います」(同)
33年前、結婚欄の記事では“できるだけ早くやめさせて上げたい”と心配していた、まき代さん。長らく、待ち望んだ生活が訪れることになる。