リアルな報道だから「実名・顔写真」に意味/残間里江子(プロデューサー) 少年犯罪の「実名・写真報道」私の考え

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 週刊新潮の記事を読むと、「もう、18歳を大人として扱うべき時期に来ているのだな」と思います。

 国会では18歳以上に選挙権を与え、大人として国政に参加させる流れになっています。いずれは犯罪についても、成人と同じ「責任」を問うことになるかも知れない。今回の報道は、そういう時代の移り変わりのタイミングを示していると感じました。

 実は、この事件が起きてから私も事務所のスタッフと話し合ったんです。もちろん、出てきた答えはそれぞれ違っていました。

 私などは、まず性善説。少年の親の気持ちになって、ものを考えてしまうところがあります。たとえ、わが子に刃物を突きつけてくるような少年がいても、最後の瞬間まで少年を信じてあげる。母親とはそういうものだと言われて育ちましたからね。事件を起こしたのも何かの事情があったのかと思ってしまうのです。

 たとえば、一昔前の凶悪な少年犯罪といえば、「永山則夫」事件に代表されるように、犯罪の後ろには貧困や無知といった「生い立ち」と繋がりがあったものです。

 でも、週刊新潮の記事を読むと、そうした思いとはかけ離れた惨(むご)い犯罪だということがよく分かる。加害者が、殺す前に少年を裸にして極寒の川を泳がせるところなどは、冷酷な遊びにしか見えない。それが、ヒリヒリとリアルな皮膚感覚となって伝わってきます。

 一方で、殺された被害者の子にしても、一方的な暴力だけで支配されていたのではなかったとも思わせます。グループを抜け出してしまえば遊び友達がいなくなる不安もある。犯人との交際を断ち切れず、事件に巻き込まれてしまったのかも知れない。

 少年犯罪の数は昔と比べて減っています。しかし、いまの犯罪は昔の物差しでは測れないものが多くなっている。

 上村くんが殺されたやり口は、「恨み」や「怒り」というより、ネットで流れる殺人シーンを見て同じようにマネてみたという感覚しか伝わってきません。重大犯罪を犯しておきながら、「生」と「死」の境目をリアルに感じていないのではないでしょうか。実は、こうしたリアリティのなさは犯罪だけではありません。今の若い人は「言葉の暴力」にも鈍感です。言ってはならないことを、さして罪悪感もなしにぶつけてしまう。だからこそ、年齢を繰り上げて成人としての自覚を促す必要性が出てきたのかも知れません。

 今回の事件では、早い時期からインターネットで容疑者の実名・顔写真が晒されていました。もちろん被害者の少年もです。しかし、ネットに出ているから少年法は有名無実だという考え方は違うと思う。ネットとジャーナリズムはあくまで別物です。

 ジャーナリズムは、私たちが事件について考えるために、人物像や家庭環境にギリギリまで迫ってほしい。少年であっても顔と名前を掲載する理由がそこにあると思うからです。

「特集 少年犯罪の『実名・写真報道』私の考え」より

週刊新潮 2015年3月19日号掲載

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