いよいよ面白い「公開親子げんか」! 株価もうなぎ上り!? 敵味方に分かれた「大塚家具」家族7人の肖像

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 家具は、円満な家庭を演出するのに欠かせないものの一つ。最もお家騒動が似つかわしくないとも言えるのに、『大塚家具』で勃発した父娘対決はもはや抜き差しならない状態に陥っている。家族7人を敵味方に分断した骨肉相食む争いは、いよいよ面白くなってきた。

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「人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている」

 芥川龍之介の残したこの言葉に従えば、『大塚家具』の場合、さしずめ悲劇の第二幕といったところか。

 2月25日、大勢の幹部社員を引き連れた大塚勝久会長(71)は記者を前にして、「悪い子どもをつくったとそう思わざるを得ません」と言い放ち、翌日に、その長女である大塚久美子社長(47)が1人で会見に臨み、「創業者は人間なので、永遠に経営をすることはできない」と反撃に打って出たのである。

 なぜ、壮絶な骨肉の争いは起こったのか。

 その発端は、2007年5月、大塚家具が自社株のインサイダー取引に問われ、課徴金の納付命令を受けたことだった。その不祥事の責任と、さらには業績の悪化も伴い、勝久氏は09年3月、社長の座を久美子氏に譲り渡し、会長に退いた。

 ところが、昨年7月、経営手法への不満を抱えていた勝久氏は、取締役会で久美子氏を解任し、会長と社長を兼務することにしたのである。

 無論、娘としては、父親から押し付けられた人事をすんなり受け入れられるわけもなかった。

 経済部記者が解説する。

「解任から2カ月後の昨年9月に、久美子さんは大塚家具の大株主である米国系ファンド『ブランデス・インベストメント・パートナーズ』に接触している。その米国系ファンドからは、大塚家具に対し、久美子さんの解任理由や新たな社長の経営方針などについての質問書が送り付けられました」

 さらに、昨年の暮れ、久美子氏は、コンサルタント会社にメディア対策も依頼していたという。

「そのコンサルタント会社の働きかけのおかげで、経済雑誌などに、彼女のインタビューに加え、勝久さんの社内でのパワハラを批判する記事が掲載されました。これらの“圧力”が功を奏したのか、1月28日に開かれた取締役会で、4対3の僅差ながら、久美子さんの社長復帰が決まり、勝久さんの役職は再び会長だけになったのです」(同)

 しかし、内紛劇はなおも終息することなく、ますますエスカレートするばかりだった。

「取締役会の翌日、勝久さんは、3月27日の株主総会における議題として、久美子さんの解任を求める株主提案を行いました。それに対し、久美子さんは、3月いっぱいで勝久さんを会長職から解任することを取締役会で決めたのです。するとすかさず、勝久さんが2月25日の取締役会で、久美子さんの社長解任動議を提出した。ですが、結局、それが否決されたために、わざわざ親子ゲンカを公開するような、あの記者会見となったのです」(同)

 まさに、泥仕合というほかないが、父と娘の経営権奪取を懸けたバトルは、家族全員を巻き込むことになった。

 約50年前に結婚した勝久会長と千代子夫人は、5人の子どもをもうけている。

 大塚家具の幹部によれば、

「もともとは、仲の良い家族でした。長女の久美子さんは、お嬢さま学校の白百合学園高校に通っていましたけど、その帰り道、セーラー服姿で会社によく顔を見せていました。一橋大学の経済学部に合格したときも、いの一番に父親に報告しに来ていた。大学生活を終えると、一旦、富士銀行に就職したものの、3年で退職。26歳で、大塚家具に転じ、父親の右腕となって働いてきたのです」

 一つ違いの弟で、長男の勝之氏(45)も名古屋芸術大学を卒業後、大塚家具に入社し、主に商品開発に携わってきたという。営業本部長などを経て、現在、専務の役職にある。

「次女は、久美子さんよりも4つ年下で、彼女も久美子さん同様に独身だと聞きました。大塚一族の資産管理会社である『ききょう企画』の代表を務める傍ら、茶道と日本舞踊の教室を開いている。さらに、5つ年の離れた三女は、大塚家具の役員と結婚し、中学生から幼児までの3人の子どもがいる。そして、末っ子の雅之さんは久美子さんとは8歳違いますが、関東学院大学で建築を学んだ後、大塚家具に入り、現在は、総務担当の執行役員になっています」(同)

■“商売大好き、勉強大嫌い”

 しかし、もはや家族7人は、完全に敵味方に分断されてしまっている。

 その勢力図について、前出の経済部記者に聞くと、

「大塚家具の18%の株を握っている勝久会長の側には、1・9%の株を持つ千代子夫人と0・1%の勝之専務がついている。勝之専務は、後継社長の座を勝久会長から約束してもらったと言われています。トータルで、20%の株を押さえているわけです。一方、久美子社長は0・1%しか株を持っていませんが、次女と三女、それに次男の雅之執行役員の協力を取り付け、9・8%の株を保有する『ききょう企画』を実質支配することができました」

 そのうえ、10・3%の株を持つ『ブランデス・インベストメント・パートナーズ』を味方につけ、勝久氏側とほぼ互角の20・2%の株を押さえているという。

 家族の対立構図はといえば、勝久夫妻に長男を加えた3人と、久美子氏をはじめとする他の姉弟4人とで争う格好になっているのだ。

 なぜ、実の娘であるにもかかわらず、勝久氏は会社を継がせたくないのか。その理由の一つに、自身の“成功体験”が色濃く影響していることは否めない。

 1943年、勝久氏は埼玉県春日部市で、桐箪笥職人の次男として生まれている。

 当時を知る地元住民はこう語る。

「勝久さんは、小学4、5年生のころから、学校から帰れば、“父ちゃん、今日はなに売れた?”と訊いてくる子どもでした。中学生になると、経理を担当するようになり、当時の口癖は、“商売大好き、勉強大嫌い”。高校生のときも、春日部高校の定時制に通い、昼間は家業に精を出していました」

『大塚家具センター』を立ち上げたのは、25歳のときだった。家の手伝いに来ていた、イトコの娘にあたる千代子夫人と結婚して間もなくのことだという。

「実家の桐箪笥だけでなく、他所からも家具を仕入れる総合家具店としてオープンしました。最初から、大繁盛です。というのも、日本が高度経済成長期だったので、近辺には団地が続々と建ち、家具は飛ぶように売れた。二十数名の社員が家具を配達するのに、朝早くから夜遅くまで忙しそうに働いていました」(同)

 数年後には、多店舗展開を図るようになった。

「東京進出の足掛かりとなったのは、板橋のボウリング場の跡地を改装した店舗でした。さらに、津田沼、荻窪、平塚などに次々と開店し、キャッチフレーズは、“一流百貨店で扱っているのと同じ高級家具が2、3割安く買える”でした」

 と話すのは、経済ジャーナリストである。

「当時、小売店がメーカーから直接仕入れることは非常識とされていました。ですが、大塚家具はその常識を破ることで安値を可能にした。さらに、メーカーは値崩れを避けるべく、小売店には希望小売価格の店頭表示を求めていたのに、大塚家具は無駄な値引き交渉を省くため、最初から値引き後の販売価格を掲げていた。当然、業界の猛反発を買いました。そこで、苦肉の策として、“価格を提示するのは会員限定”というビジネスモデルを導入したのです」

 この販売スタイルは、業界の異端児として快進撃を成し遂げるキッカケとなった。2001年には、売上高が760億円に上り、業界最大手にのし上がった。しかし、住宅着工戸数の減少やニトリやイケアなど新興勢力の台頭によって、それをピークに売上高は下降線を辿り始めたのである。

■株主提案は否決

 大塚家具のお家騒動は、父親の築いたビジネスモデルを娘が否定する戦いでもあるのだが、その雌雄を決するのは株主総会である。

 大塚家具の株主が言う。

「記者会見で、久美子社長が40円の配当を倍にすると言及したことに加え、プロキシーファイト(委任状争奪戦)に発展して株の買い集めが行われることへの期待感から、大塚家具の株価はうなぎ上りになった。ストップ高の連続で、一時、2000円の大台も超えました」

 骨肉の争いは、マーケットにも波及しているわけだが、結局、父と娘のどちらに軍配は上がるのだろうか。

「株主総会では、久美子さん側の会社提案が承認され、勝久さん側の株主提案は否決される可能性が高い。つまり、勝久さん一派は一掃されることになります。なぜなら、日本の機関投資家は、一般的に“もの言わぬ株主”なので、会社提案には異を唱えず、逆に、株主提案に賛成票を投じることはほとんどありませんから」(同)

 しかも、大株主である日本生命や東京海上日動火災などは、コンプライアンスに厳しい目を向けることで知られている。経済雑誌などで、パワハラを久美子氏に暴露されては、勝久氏側につくことはまずあり得ないという。

「となれば、久美子さんが勝利を収めることはほぼ間違いないわけですが、問題は、勝久さんが大株主であることに変わりはないことです。3%以上の株を保有していれば、臨時株主総会さえ招集することができるのです。もし、久美子さんの舵取りによって、業績がより悪化したら、勝久さんはここぞとばかりに、久美子さんの社長解任を再び株主提案してくるはずです」(同)

 従って、“解任”の応酬は、まだまだ続くという。血の繋がった親子のケンカであるゆえに、余計に拗(こじ)れて収拾がつかなくなりそうなのである。

週刊新潮 2015年3月12日号掲載

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