30年代のメディアを俯瞰する/『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』
おそろしく膂力のある若い批評家の誕生である。冒頭で提出される問いは、日本に言論、思想、批評といった営為は存在したのかという大テーマ、その作業工程はといえば、一九三〇年代の綜合雑誌、文芸誌、新聞学芸欄を総ざらいして、精緻に読み込むという手間暇をかけている。なにやらカビっぽい臭いがただよってきそうだが、さにあらず。小生意気な文章には清潔なデジタル感覚がある。古くさい言葉で恐縮だが、「書巻の気」があり、且つ、ないといった本である。
一九三〇年代の綜合雑誌を見ると、その分厚さに驚く。「新潮45」の二、三倍はある。とても一ヶ月では読み切れない分量であり、論説、論争、座談、時評、読物、小説が満載だ。「中央公論」「改造」「文藝春秋」「経済往来(後に「日本評論」と改題)」と主要なものだけでも四誌ある。百家争鳴のにぎわいに、次々と新規参入の書き手が現われる。著者の大澤聡は、綜合誌のみならず、その補完関係にある文芸誌、新聞学芸欄も視野におさめて、言論シーンを再現する。
中高等教育の普及、円本ブームから始まる市場の拡大、普通選挙時代の到来、大学を追放された左翼学者の流入、そうした条件が重なって、知は大衆化し、商品と化して猥雑な空間を流通する。大澤が見据えているのは、近代日本に「言論空間のプラットフォーム」が生成される現場である。
大テーマや代表的言論人に片寄らない雑読は、歴史への土地勘をこの著者に与えている。どの記事も文章も、独立させては扱わず、大きな文脈の中の一本として平等に取り扱う。今風な「コンテンツ」万能のお手軽言論への軽侮を込めた批判を内包していることは明らかだ。
著者は五つのジャンルを各章の考察の対象にする。論壇時評、文芸時評、座談会、人物批評、匿名批評である。「章間に相互リンクを網状に貼りめぐらせる」という方法をとる。最初はオーソドックスに、徐々に意外性が増していく。その間に幾つもキーワードが提出される。何が記述されているかではなく、どう記述されているかを重視し、「内容分析から形式分析へ」と宣言される。そうは言っても、土地勘が血肉化しているので、地に足が着いている。道案内役として、常に参照されるのは、大宅壮一である。
本書の中で、大宅の仮想敵は小林秀雄である。時評的部分を削ぎ落し、「主観的」で、ジャンルとして「自律」した批評を小林は目ざす。大宅は文学を神聖視しない、文章を商品と割り切る、時代の速度に伴走し、後は読み捨てにされていい。それが大宅壮一だ。
大宅の名前は今も残っている。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」など毎年流行語大賞が貰えそうな造語力、チーム取材の週刊誌の記事づくり、雑誌記事の私設図書館である大宅文庫。
大澤は大宅だけでなく、大宅に準じる言論人を本書に招喚する。名前を挙げると、杉山平助、新居格(にいいたる)、青野季吉、大森義太郎、三木清、戸坂潤、室伏高信(むろぶせこうしん)、春山行夫、矢崎弾など。巻末の人名索引でその登場回数を確認するまでもなく、印象的な発言を本書で拾われている。彼らはマガジン・ライターとしてジャーナリズムで重宝される。三木や戸坂のように哲学畑の学者として今でも記憶される人間もいるが、ほとんどの人と仕事は忘れられた。なかには病死や獄死で、戦後まで生き残れなかった者もいる。
大宅以下、彼らの役割は、知の大衆化時代にあって、情報を圧縮し、分類し、序列化し、レジュメを書き、といった作業だった。大宅壮一がグーグルを先取りしたといえる大宅文庫を残したことに象徴されるように、彼らはグーグル・ウィキ型の文化人であり、百科全書派的な社会観察者だった。雑草であり、平批評家だった。フットワークは軽く、ゴシップへの感度があり、座談を得意とし、論争を好み、噛みつき、徒党を組まず、各人の相互批判をも辞さなかった。このうちの二、三人でも現在の言論空間に呼び戻したい逸材である。
杉山平助の場合は、マイナーな書き手だったのが、東京朝日のコラム「豆戦艦」の氷川烈として売り出し、それに連れて、杉山平助の名も有名になる、といった事態も起こった。言論への圧迫が強まるなか、「匿名」の果した役割と効用への大澤の独特の考察は読みごたえがある。匿名批評であっても、匿名に隠れた2ちゃんねるではなく、輿論を背負う言論たりえていた。その匿名批評も総動員体制では存在が許されなくなる。
私が気になっているのは、昭和十二年の支那事変を境にしての小林秀雄の変貌である。小林は中国の戦地行きを志願して、社会批評にコミットする。大宅壮一はその前にすでに、東京日日新聞の専属となっている。非常時日本の締め付けの中で、言論空間はどう変質したのか。本書の検討の範囲外になっているが、若い大澤に、次にチャレンジしてもらいたいところだ。二・二六事件後に朝日と読売の論壇時評が停止、支那事変から一年後の新聞用紙制限令を、本書でもトピックとして挙げているのだから。
同時期にさらに若いメディア研究者である牧義之の『伏字の文化史――検閲・文学・出版』(森話社)という本が出た。戦前期の伏字で埋まった出版物を読み込むことから、当時の言論抑圧の実情に迫ろうとしたものである。発禁を避けるために事前検査を願う「内閲」、編集部による自主的な伏字など、言論空間の一筋縄ではいかない負の側面へのアプローチである。細部を読み込み、歴史を「更新」する試みは次々と成果を上げている。
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