詩人気質の「戦中派」/『橋川文三 日本浪曼派の精神』

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 某日の朝日新聞の一面を見て驚いた。一面といっても朝日特有の「角度」をつけて書かれた記事ではない。下段の広告欄、俗に「三八(さんや)つ」といわれる書籍広告欄である。その出版社八社の新刊広告のタイトルに「橋川文三」という名前が二箇所も登場していたのだ。一冊が平野敬和『丸山眞男と橋川文三――「戦後思想」への問い』(教育評論社)、そしてもう一冊がこれから取り上げる『橋川文三 日本浪曼派の精神』である。

 丸山眞男の異端の弟子であり、吉本隆明と肝胆相照らし、晩年の三島由紀夫から一目置かれ、猪瀬直樹、片山杜秀といった異能の人にまで影響を与えた(二人は橋川の著作を読み、橋川研究室を目ざして明大の修士課程へ。ただし、片山は歿後の橋川研究室)、橋川はそんな文人肌の日本政治思想史学者だった。

 橋川が『日本浪曼派批判序説』でデビューしたのは六〇年安保の年だった。華麗なレトリックで若者たちを戦争体制へと誘惑した張本人として、戦後、断罪され抹殺されてきた日本浪曼派、その中心人物が保田與重郎(やすだよじゅうろう)である。旧制一高時代に保田に心酔した橋川が、自らの「ひたすらに「死」を思った時代の感情」を対象化し、日本浪曼派を歴史の中に正当に位置づけ直すのに、十五年の歳月が必要だったのであろう。本書は『日本浪曼派批判序説』が出るまでの橋川の前半生を執拗に追った評伝である。

 著者の宮嶋繁明は橋川ゼミ出身者であるが、師と教え子という関係で橋川を取り上げているわけではない。底流には師への敬意があるのは当然だが、何よりも、「全存在を賭けて戦争に向かい合っていた」、それ故に「長い沈潜・沈黙の時を経た後、皇国少年だったことをバネにして、再び立ち上がっていく」思想家としての橋川文三を蘇えらそうとしている。

 いまや死語になりつつある「戦中派」という分類がある。私が戦中派として肯定的に思い浮かべるのは、こんな顔ぶれである。大正九年生まれの古山高麗雄と阿川弘之(阿川は広島高師附属中学で橋川の一年先輩)、十年の山本七平、十一年の橋川と安田武、十二年の吉田満、十三年の吉本隆明、十四年の三島由紀夫。

 わだつみの世代とも、学徒出陣の世代ともいえよう。橋川は「特攻隊的世代」という、独特で微妙で屈折した呼び方をエッセイ(「歌の捜索」)ではしていた。前記八人の戦中派は「戦争」をいつまでも長く引きずった男たちなのだが、そのうち、軍歴がないのが橋川と三島と吉本である。橋川と三島は病気のため、吉本は理系学生だったためだ。しかし、その三人が橋川の命名する「特攻隊的世代」という言葉に、もっとも似つかわしい物書きであった。特攻隊で死んだわけでもなく、特攻隊になりようもない、それでいて戦争で死ぬことに意味を見出していた、日本浪曼派に影響された青年たち。

 宮嶋は前著『三島由紀夫と橋川文三』(弦書房)で、橋川が戦中の自己を罪とみなしたのに対し、三島は戦中の自己に自責の念を持たずに出発した戦後を、遂に罪として処断したと対比させた。そうした関係だったが故に、橋川はアクロバティックに戦後に登場した三島の最良の理解者となり、最強の批判者になりえたのだろう。

 宮嶋は玉音放送を聞いた日の橋川の回想を引用している。「死んだ仲間たちと生きている私との関係はこれからどうなるのだろうかという、今も解きがたい思い」を、その日に感じたと。この問いかけには、戦後から現在までに続く左右双方にある、手前勝手に「死者」の思いを忖度する傲慢が入り込む余地がない。口ごもり、恥じらい、自問するしかない場所に居続けた詩人気質の賜物だろう。

 橋川は一高時代には、詩人としての評価が高かったという。その一高ではクラス四十人のうち日本浪曼派に関心をもっていたのは十人足らずの少数派だった。戦死者はクラスでただ一人と少なかった。戦後の混乱期に亡くなった級友が九人もいるが、彼らはみな結核だった。こうした意外な数字を教えられることも評伝のありがたさである(橋川が「死んだ仲間」として思い浮かべるのは、予科練に志願した中学の同級生たちだ)。

 橋川は結核のため徴兵されなかったが、その代わりの徴用先で、国家の上層部の腐敗を知る。貴族院事務局での筆記係としては、戦局の苛烈さとかけ離れた愚劣な議論が横行する政治の現場を目撃する。農林省食糧管理局では、陸海官の食糧の奪い合いと、官僚たちの秘密の大宴会を知る。東大法学部生だった「橋川が当然の如く抱いていたであろう高級官僚への道を、自らが閉ざすことにつながったともいえる」。

 戦後の橋川には貧困、結核、共産党体験、不幸な恋愛、家族の死などが次々とふりかかる。戦後日本は橋川にとって、自らの流謫の地だったとしか思えない。その中で、編集者として出会ったのが丸山眞男だった。丸山の代表的論文「軍国支配者の精神形態」の担当編集者が橋川だった。これをきっかけに、橋川は丸山の学外の門下生となって、生涯の師と仰ぎ、「社会科学的な視野と方法論」を学んでいく。そればかりか、就職の世話、内職の紹介、借金、結婚の媒酌、と世話になりっぱなしとなる。

「師丸山に対する礼節を軽んじることは、決して無かった」橋川は、吉本隆明と並んで丸山の学問の批判者となってゆく。宮嶋が引用する橋川歿後の丸山のインタビューの全文を読むと(『橋川文三著作集7』月報)、丸山の皮肉と批判が意外ときついことがわかる。人間力では橋川に軍配を挙げたくなった。

[評者]平山周吉(雑文家)

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