人類学者が旅する乳文化の歴史/『人とミルクの1万年』
「牛乳値上げ」「バターが消えた?」「緊急輸入」などの見出しが新聞に躍る。乳製品なしの食生活は今や日本人には考えられず、だからこそ品薄や値上がりには無関心ではいられない。
しかし考えてみると、ミルクとは元来哺乳類の母親が自分の子供に与えるために作り出した栄養分に富む体液。人間だけは母乳に加え、わざわざヒツジ、ヤギ、ウシ、ラクダ、スイギュウなど他の哺乳類からも横取りし、しかも大の大人までが利用する。不自然感がどうしても残る。その不自然さは、乳糖分解酵素を失い牛乳を飲むとお腹がゴロゴロする大人の多いことにも表れる。
人類が最初に牧畜を始めたのはほぼ一万年前。地中海東岸の西アジアで、とされる。著者は牧畜が一つの生業として独立したのは、飼育獣の食肉利用よりも、長く生かしてミルク(や毛)を利用するようになって以降、と強調する。食肉利用は大量のエサを与えて少量の肉を得るというエネルギー面での非効率性があり、ミルク利用による自活こそ、狩猟民や農耕民らとの棲み分けを可能にしたからだ。その時期は牧畜開始の一万年前からさほど遅れない頃とされる。
そのために必要なのは、腐りやすいミルクを保存食化して長期の飲食にたえられるものにする技術。ヨーグルト、バター、バターオイル、チーズ、乳酒などを作る技術だ。本書では西アジアから南、中央、北アジア、ヨーロッパなど世界各地に伝播した牧畜が、先々の気候・風土に合わせてミルク処理の方法を微妙に、しかし確実に変化させてゆく様子を活写する。シリアを初め現地調査の豊富な著者ならではの描写と分析だ。大人が読んでも手に汗握る。
たしかに現在、世界の牧畜地を見ると、ヨーロッパを除いて大半が乾燥地であることに気付く。その「高温・乾燥」「寒冷・乾燥」「冷涼・多湿」などの諸条件がどんな乳製品とライフスタイルを生み出したか。高温地域では一刻も早くミルクを乳酸発酵させ腐りにくいヨーグルトにする必要があり、ヨーグルトからバター、バターオイル、チーズができる。なにしろ畜獣が子を生み搾乳できる時期も限られている。西アジアはまさにそうだ。ところが低緯度のインドでは特定の産期がなく、新鮮なミルクを年中入手できるため、いつの間にか牧畜民の間でチーズを作る習慣がなくなってしまった由。
なんといっても特徴的なのは「冷涼・多湿」なヨーロッパでのチーズの熟成だ。熟成とは酵素や微生物の力で肉などの脂肪・タンパク質の分解を促し、味わいをよくすること。要はカビをつけてのチーズの長期保存だ。高温地域の水分を抜ききったカチンカチンのチーズとは対照的で、モンスーン気候帯のカビ文化(味噌、納豆)に相当するのかもしれない。