「イスラム国」で10カ月捕虜だった「フランス人」の証言「同房の捕虜が処刑の日」
残虐の限りを尽くすイスラム国においては、戦闘員のみならず人質の国籍もまた多岐にわたる。ひとたび囚われの身となれば、どのような仕打ちが待ち受けているのだろうか。命からがら解放された元人質のフランス人ジャーナリスト、ニコラ・エナン氏(39)が、10カ月間に及んだ恐怖生活を明かしてくれた。
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「私を捕まえたのは、今回日本人を人質にしたグループと同じです。映像で英語を喋っている男(通称「ジハーディ・ジョン」)が、刑務所での“世話係”でした」
そう話すエナン氏は、2013年6月、取材のためイスラム国の「首都」ラッカに滞在していた。
「ちょうどバグダディがシリアのアルカイダと仲違いし、ジハード主義者がラッカを占拠したばかりの頃。この大都市をどう統治していくのかをルポするため、アラブの春以来5回目となるシリア渡航を決めたのです」
ある日、一人で歩いていると突然車が停まり、全身黒ずくめでカラシニコフ銃を携えた男たちが現れた。
「頭からコートを被せられて手錠をされ、車の後部座席に押し込まれました。10秒足らずの出来事です。最初に連れて行かれたのは、ラッカ近郊の砂漠にあるかつての石油採掘所。その事務所が“刑務所”になっていて、私の部屋は狭いシャワー室でした」
上部には鉄格子付きの窓が1つ。エナン氏は、3日間かけてこの窓をこじ開けることに成功した。が、
「逃げ出して夜通し砂漠を走り、朝方、ある村に着いたのですが、そこには同じグループのジハード主義者がいて、すぐに連れ戻されてしまった。再度逃げないようにと靴を脱がされ、懲罰の拷問を受けたのです」
その詳細については、
「家族が心配するので内容は一切話せない」
と言い、以後は転々と。
「刑務所は10回ぐらい移りました。初めの頃はシリア人の囚人も見かけましたが、彼らは飲酒や麻薬売買、また現政権に協力した、といった理由で、日没から朝のお祈りが始まるまでずっと拷問を受けていました」
■オレンジ服は“死刑囚”
エナン氏は、およそ20人の人質と同房で、隣の房には6人ほどの女性が入っていたという。
「この二十数人が、いつも一緒に移動していました。国籍は米国、スペイン、デンマーク、ベルギー、イタリア……。全員白人で、牢の広さは20平方メートルほど。どこも家具は一切なく、マットレスがあったりなかったりで、夏は暑く、冬はとても寒い。地下の房にいた時は、割れた窓から雪が入ってくることもありました」
が、裸足の上に電燈も暖房もなく、食事は1日2回。
「昼過ぎに1ダースのオリーブとヨーグルト。夜はティーカップ1杯分のご飯だけ。それに毎食、地元産のパンがつきました。生かさず殺さず、最低限の栄養を与えていたのでしょう」
衛生状態も劣悪で、
「アレッポの工場跡に新設された刑務所だけは房内にトイレがあったのですが、他では看守に見張られ、1日2~3回、各1分間と決められていた。だから30秒で用を足し、残り30秒で今日は上半身、明日は下着を洗うというように、あらかじめすることを決めておいたのです」
房内では人質同士、つねに小声で囁き合っていたという。
「ボール紙に、看守から貰った鉛筆でマークを書いてトランプやチェスを作り、オリーブの種でチェッカーゲームもしました。作業は何も強いられず、一度看守が“皿洗いをする者はいるか”と尋ねてきた時、私は真っ先に志願した。することが何もないのは死に等しい苦痛だ、と思い知らされました」
そんな中、“覚悟”せざるを得ない状況に直面した。
「ある日、同じ房から一人の人質が連れ出されました。数日後、看守がパソコンを持ってやって来た。そこには、彼の処刑される様子が映っていたのです」
次は我が身か……誰もがそう慄(おのの)いたことだろう。
「人質のオレンジの服は、イラク戦争で捕まったテロリストが収容先のグアンタナモ米軍基地で着せられていたものと同じ。つまりジハード主義者にとっては“復讐”なのです。04年春に西洋人が処刑された時に登場しましたが、これを着るということは死刑囚を意味する。私も2カ月ほど、この格好をさせられていました」
恐怖心をあおり、思考力を徐々に削いでいく。それでも、エナン氏は何とか正気を保とうとした。
「腕時計は捕まった時に奪われていたので、毎日、礼拝の声を時刻の目安にし、感覚を失わないよう朝起きると“今日は何月何日”と繰り返していた。仲間内では『時間管理人』と呼ばれていました。だから解放された時も、日付をぴたり当てることができたのです」
昨年4月、トルコ国境で解放されるに際し、フランス政府は1800万ドル(約21億円)の身代金を払ったとも報じられた。