ロシアから見た満州の姿/『ハルビン駅へ 日露中・交錯するロシア満洲の近代史』
白系ロシア人、アールヌーボー式建築、自由と繁栄、頽廃。戦前のハルビンは独特な魅力の国際都市だった。十年暮らした内村剛介は「人がなんと言おうとハルビンはわたしのものである」と書いたが、そうした強い思いはハルビンを知る多くの日本人に共通するものらしい。
しかしもちろん国際都市というからには、各国人が混住するエキゾな魅力だけでなく、目に見えぬ国際政治の激しいせめぎ合いがあった。ロシア(革命後はソ連)、中国、日本による三つどもえの勢力圏争いである。本書は主としてロシアの資料を用いながら、十九世紀末から二十世紀前半の満蒙史を、徹底してロシアの視点で描く。当然のことながら、日本での満州関連の本はほとんどが日本側からの記述なので、ロシアからの逆照射は新鮮でもある。
一八九六年の露清条約で、ロシアはウラジオストックに至るシベリア鉄道の東端部を、清国満州内(満州里―綏芬河)に敷設する権利を得た。東清鉄道(清朝滅亡後は中東鉄道)である。起工式は翌九七年に行われたが、鉄道が最大河川・松花江をまたぐ予定地、水運による資材集積予定地に急きょ建設されたのがハルビンというわけだ。もともとは「ハアビン酒造」と書かれた焼酎の小さな蒸留所が見えるだけの寒村だったという。
鉄道を通じての地域開発(農業振興や鉱山開発)、そのための資本と人的資源の投入、人々の意欲を十分鼓舞した上での経済発展と利益の回収……そうしたグランドデザインを描いたのは当時の大蔵大臣ウィッテだった。日露戦争後のポーツマス会議で、小村寿太郎の交渉相手になった人物である。こうした構想は規模の大小を問わなければ、日本の私鉄でもターミナルの遊園地や駅ごとの宅地開発としてしばしば行われたが、国外で、しかも一国レベルでのそれは、もはや武力と領土の併合を伴わない新しいタイプの植民地経営だといえる。
併合を伴わない植民地経営の利点は少なくない。武力弾圧が引き起こす激しい反発から免れ、利益だけを享受できたこと。ユダヤ人、ポーランド人、異端派正教徒ら国内のマイノリティを積極的に送り出す一方で、植民地からの中国人流入は制限できたこと。本国に先駆け多くの政策の実験ができ、現に後に革命気運に対応すべく実行されたストルイピン改革には満州の諸施策が採用された。
満州での成功の分け前にあずかろうとする陸軍省や外務省との対立もあって、ウィッテ自身、軍事を嫌う平和主義者の役回りを演じた風もあるが、正確にはやはりロシアの利益が第一の、一層巧妙なる植民地主義者というところだろう。
同時期に出た『満蒙』(麻田雅文著、講談社刊)との併読が、やや取っつきにくい本書の理解を助けてくれる。