フェミニズムに偏らない日本のヌード論/『ヌードと愛国』
いい年をして、『ヌードと愛国』というタイトルに「そそられ」て、書店で手にとった私が浅はかだった。明治から一九七〇年代まで、巷にいまだヌードが氾濫していない日本に降臨した、七つの神々しい肉体は、有り難いものではあるが、そそるものではない。冷静に考えれば、あたりまえの話だ。
といって、私が本の選択を誤ったわけではない。ヌードにはそそられなかったが、本書で展開される考察と視野の広さには、正直、そそられたと告白する。
七色の照明をあてられるヌードは多彩にして、意表を突く。高村智恵子による男性股間デッサン、竹久夢二の美人画からヌードへの越境、現存する日本映画最古のヌードが映る海外向け宣伝映画『日本の女性』、満映のプロパガンダ映画『開拓の花嫁』の乳房、占領下銀座四丁目交差点の「ミニスカどころじゃない」婦人ポリスのヌード、武智鉄二監督『黒い雪』の基地を走る少女、石岡瑛子がデザインしたパルコの「手ブラ」ポスター。
レアものもあれば、騒々しいスキャンダルもある。対象はファインアートから、映画、広告まで。雑多な裸体を貫く共通項は、「日本」という衣がまとわりついているという点である。
「男には向かない? 職業」「Yの悲劇」「そして海女もいなくなった」といった章タイトルが示すように、ミステリー仕立てを採用し、和製「刑事コロンボ」も登場する(推理する著者・池川玲子自身なのだが)。推理の線上には、必ず視線の権力劇が立ち現われる。『ヌードと愛国』とは、「ジェンダーとナショナリズムが交錯するイメージの戦場」従軍記である。
『ヌードと愛国』は、元になった大学での講義タイトルでは、「ヌード像を通じて近現代の日本女性史を考える」である。立派なフェミニズム研究らしい。しかし、この本にはフェミニズムには収まりきらない不良性感度がある。こわばりのない、誘惑的な語り口なのだ。
高村光太郎と結婚する前の画学生で、「デッサン館の秘密」の章の主人公・長沼智恵子は、歿後にも「智恵子少々」の章に登場する。武智鉄二は最晩年の光太郎に智恵子の能面づくりを依頼し、『黒い雪』のヒロインに智恵子のイメージを被せたという。
大正時代に一世を風靡した「夢二式美人」は、ブームの去った後に再起を図る。イメチェン、海外進出、ヌードで出直しという作戦である。波瀾万丈にヌードはつきもののようである。
著者の師・若桑みどりはフェミニズム美術研究の大家だった。『隠された視線――浮世絵・洋画の女性裸体像』(岩波書店)という本もある。その影響を受けつつも、純美術の領域から逸脱するほど、著者の本領は発揮される。それはお役所が作った帝国日本の紹介映画と、占領下のパロディ・ヌード写真を考察した二つの章である。二人とも台の上にすっくと立つ、均整のとれた後ろ姿である。顔は残念ながら見えない。
映画『日本の女性』は昭和十六年に製作された。フィルムは沈没した日本の軍艦から回収されたといわれる珍品である。
もともとの企画はハリウッド発で、浮世絵イメージとハリウッドの人魚映画とが発想の源にあった。NHKの「あまちゃん」ではなく、007のボンド・ガール浜美枝に連なる海女イメージである。しかし、第二次世界大戦の勃発、日米関係の悪化で、企画は大変身する。海女ヌードは削除され、代わりに女性彫刻家の前でポーズをとるモデルが、初ヌードの栄光を担う。国策の転換に呼応してのヒロインの交代である。著者はその映像に「西洋文明の粋である芸術が、日本において完全に咀嚼されたことの文化的な勝利宣言」を読み取る。真珠湾攻撃以前に既に、「アメリカが提示した海女のエロティシズムと真逆の価値観」をまとったヌードだったのだ、と。
もう一つは、タイトル不明、制作年不明の合成写真。銀座四丁目交差点の台上で、自動車の波をさばく婦人警察官の勇姿である。カメラマンは朝日新聞写真部の大束元。「終戦の詔勅放送に泣く女子挺身隊員」の写真では、少女の顔に涙を描き加えた写真家である。
女性のヌード像は、GHQの指導で「平和」のメッセンジャーとして町の中にたくさん設置された。大束は国会議事堂近くの「平和の女神」の撮影もしている。ただしアングルが凝っている。「現場百回」で著者が推定したところでは、ヌード像の向こうの風景ははめ込みで、皇居のお堀が配されているとのことだ。
一筋縄ではいかない大束カメラマンのポリス・ヌードとは? 著者は「額縁ショー」以来のヌードブームに見え隠れする「戦後という時代の底の浅さ」を暴き、さらには「重慶爆撃」を撮影した自らも嘲笑する、「笑いの深さ」を発見する。
戦後に採用された婦人警察官の主な任務は、パンパンや戦災孤児への対応だったという。だとすると、この腕時計だけはめたヌード婦警は、物資豊富な駐留軍兵士と腕からませるパンパンをも諷刺しているのでは、と私の想像が膨らむ。
七つのヌードの中で、唯一納得できなかったのが授乳する乳房である。人前で乳をやる母親は、日常ならありふれた光景ではと思えたからだ。昭和十八年に満映が作った移民奨励の文化映画『開拓の花嫁』がスクリーンの初乳房だったにしても。その疑問は、読み進むうちに解消する。溝口健二の万年助監督であり、男装の女性監督として大陸に渡った坂根田鶴子の苦闘するキャリアが、著者にとって、最高の共感の対象だったのだ。
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