人体の謎をめぐる知的な航海/『人体の物語:解剖学から見たヒトの不思議』
明らかに自分のものなのに、実はそれについて何も知らない――。それが人体だ、といわれても多くの人は納得しないだろう。著者はこれを「午前三時の膀胱問題」といい、「なぜそんな時間にトイレに行きたくなるのか、自分の膀胱が機能する仕組みを知っているか?」、「今と若い頃とで膀胱の働き方が違うように思えても、それがなぜか説明できるか?」と問う。おそらく誰も答えられないはずだ。要するに私たちは「人体」について何も知らぬまま何十年も生きる。
本書はその“謎だらけの相棒”である人体について、文学、絵画、文化人類学、歴史などのジャンルから理解を試みた過去の偉人たちのエピソードを紹介することで、人体を“解剖”しようというもの。こうした「人体解剖の試み」をさらに面白く読ませるのが、専門用語を使わず、衒学的でシニカルな文章で、決して飽きさせることがない著者の筆致だ。
著名な科学キュレーターでもある著者は、前著『元素をめぐる美と驚き』で同様なアプローチで元素の謎を解き明かした。今回もシェイクスピア、レンブラント、ゴーゴリーなどの薀蓄をこれでもかと盛り込むだけではなく、自らも解剖を試みたりしつつ、肉、骨、心臓、脳、眼球、鼻、性器……と人体各部の謎に迫る。
「我思う、故に我あり」のデカルトが眼について行った実験に言及している部分は圧巻だ。デカルトは後部の外層を丁寧にメスではがした雄牛の眼球を暗室の穴に置き、その後ろに卵の白い殻を置くと、外の光景が眼球を通過して卵の殻のスクリーンに再現されたと書いている。著者はその実験に倣い、豚の目を用いて感動的な結果をレポートしている。
科学とテクノロジーの進化は、細胞、DNA、脳などを解明しつつあるというが、実は私たちは丸ごとの人体そのものの仕組みについては何も知らないという事実を、やんわりと突きつける“人文科学系”ポピュラーサイエンスの名著と言えよう。