イスラム教徒による全米ベストセラー/『イエス・キリストは実在したのか?』
オビの惹句に「イスラム教徒による実証研究で全米騒然の大ベストセラー」とある。かつて、イスラム教は西アジアに根付いたキリスト教異端の一つで、『クルアーン』はその聖書のアラビア語訳だとするキリスト教側からのイスラム起源論があったが、本書は逆に、イエスの中にイスラム教の原像を見つけようとする立場かなと思って読み始めると、そんな受け狙いとは異なり、実証的な歴史解明であることがすぐ分かる。結論も説得的であるように思われる。
著者は一九七二年のテヘラン生まれ。革命と同時に家族とともに出国したイスラム教徒で、キリスト教信仰に接したアメリカでは宗教学の研究を志す。ただしその後アイデンティティ・クライシスに陥り、自身は再びイスラム信仰に戻るが、史的イエスの研究はずっと続け、本書はその二十年来の成果というわけだ。
イエス在世時のユダヤ社会の様子と処刑にいたる彼の生涯、紀元七〇年のローマによるエルサレム陥落、イエスの教えの国外ユダヤ人や異邦人への浸透、前後して生じたキリスト教の成立……など初期キリスト教史の基本的な出来事が、それぞれ丹念に再吟味され、大きな脈絡の中に位置づけられてゆく。訳文もこなれ、頭に入りやすい。
焦点は二つ。一つは歴史上の「ナザレのイエス」は実際どんな人であったか、何を主張したのか、の探究。もう一つは、パウロによるローマのキリスト教は、なにゆえイエスが濃厚にまとっていたユダヤという民族性(ナショナリズム)を脱ぎ捨て、もっぱら永遠の相の下に「愛と平和」を説く普遍宗教になったのか、の探究である。
前者に対する著者の回答ははっきりしている。イエス在世時、パレスチナはローマの施政下にあった。もともとそこは神(ヤーヴェ)が彼らに与えた土地で、異邦人が占拠しているのがおかしい。メシアは「油を注がれし者」の意のヘブライ語だが、神の子としての王に冠せられるのが普通の用法で、メシア運動とはつまりは外国人を排除し「自分たちの王を持ちたい」というナショナリスティックな独立運動にほかならない。否定しながらもメシア待望論に応えるイエスは、弾圧を避けつつ煽る一徹な煽動者というわけだ。このあたり、たしかにイスラム原理主義者を思わせないでもない。
国外ユダヤ人への浸透をはかるパウロは、コスモポリタンである彼らのために「キリスト」というギリシャ語を用意した。メシアの翻訳語ではない。愛と平和の救世主という新義にふさわしい新語として。ただしパウロが受け入れられるのは、紀元七〇年以降、エルサレムが灰燼に帰し、イエスの弟ヤコブを含む弟子第一世代によるナショナルな教団が力を失うのを待たねばならなかった。