今蘇る柳田の「経世済民」の志/『遊動論 柳田国男と山人』
あの柄谷行人がやっと日本に帰ってきてくれた。なんだか変な感想になってしまうが、それが『遊動論――柳田国男と山人(やまびと)』読後の実感である。
阪神タイガースの熱狂的なファンである柄谷を野球選手に擬すれば、世紀の変わり目に、柄谷投手は日本のプロ野球からベースボールの大リーグに移籍した。
相変わらず達意の日本語で執筆はするが、その著作は、日本という文脈を離れ、英語圏への発信に傾注されていた。その理論的成果が『トランスクリティーク――カントとマルクス』や『世界史の構造』になる。
それでも、漱石論でのデビュー以来四十年間の著作は、ほとんどが今でも単行本や文庫として店頭で入手できる。現役の物書きであり続けている稀有な例だ。
批評家から思想家に変身した柄谷にとっては迷惑かもしれないが、私はいまだに柄谷行人を日本の批評家と思い込んでいる。今度の本は小林秀雄、吉本隆明、江藤淳と連なる日本の批評文学の系譜への柄谷の復帰作としても読めた。
民俗学者と限定するよりも、「知の巨人」と言ってしまったほうがわかりがよい柳田国男は、3・11を契機に『遠野物語』や『雪国の春』などの東北物が注目を集めた。柄谷は阪神大震災の後と同じく柳田の『先祖の話』を読み直した。「これは戦争末期、大勢の死者が出、且つ、亡国が必至であった状況で書かれた本であったからだ」。
柄谷の柳田への関心は、ずっとさかのぼる。「月刊エコノミスト」に柳田論が連載されているのに気づいて、途中から私が読んだのは四十年前だから、なんとも嫌になるほど古い話だ(昨秋、インスクリプトからその連載が『柳田国男論』として本になった)。
その頃の柄谷の批評文には柳田への言及が多かった。柄谷自身が認めている『日本近代文学の起源』のみならず、坂口安吾論、江藤淳の占領期検閲研究への批判でも、柳田が参照されていた。
第二評論集『意味という病』の中には、柳田の『山の人生』冒頭からの印象的な引用があった。飢えに苦しむ美濃山中の炭焼き夫による子殺し事件の犯罪記録を柳田は職務として読み、「父親の行為の底に、いわば《魂》の問題、道徳とか法では律しえない「人間の条件」を感受」する。その事件に興味を示さなかった友人の田山花袋よりも、柳田の感受性に《文学》を感じた、と若き日の柄谷は書いている。
このエピソードは、『遊動論』でも重要なところで登場する。柳田は東京帝大法学部を出て、農商務省に入省する(現在なら農水省だ)。入省の動機は、柳田自身の農政学によって飢饉を絶滅するためであった。明治の官僚らしい経世済民の志である。後に、法制局参事官、貴族院書記官長、国際連盟委任統治委員会委員とそれなりの出世はするが、「富国強兵」のための農政(農村は衰微してもいい、農民も重視しない農業政策)の壁に立ち塞がれて、柳田の農政学は早々と挫折していた。『遊動論』では、子殺しのエピソードは、「飢饉によって起こった事件」であり、「飢えた者らが絶望的に孤立しているからだ」と捉え直される。
柳田の『明治大正史世相篇』から「共同団結に拠る以外に、人の孤立貧には光明を得ることはできないのであった」が引用され、このエピソードは、柳田の提唱した自治的な相互扶助システムである協同組合論に接ぎ木される。「柳田は協同組合を農業ではなく、農村、すなわち人々のさまざまなネットワークから考えようとした」。
子殺しの事件に衝撃を受けた頃、柳田は焼畑と狩猟で生きる宮崎県の椎葉村を訪れる。そこで柳田が発見したのは、平地の日本人とは違う価値観で暮らす山の人々の共同所有をベースにした「ユートピア」だった。「純正な保守主義者」(橋川文三)である柳田が彼らに見たものを、柄谷は「国家に抗するタイプの遊動民」=山人、であると理論化していく。
思想家・柄谷行人の当面の探求対象である「資本=ネーション=国家を越える交換様式X」に該当するものを、柳田は既に生涯をかけて追究していたのだ。柳田の百年前の経世済民の志が、ここで柄谷の経世済民の志に憑依する。その静かな昂奮は、批評と思想の融合として、風通しよく伝わってくる。
柳田が敗戦直前に書き、柄谷が東日本大震災を機に再読した『先祖の話』は、日本人の固有信仰を明らかにし、戦争で若くして国のために死んだ、子孫のいない多くの霊をどうやって祀るかという現実の問題に応えようとしたものだ。その固有信仰とは、「祖霊と生者の相互的信頼」を核とし、「祖霊は多数的でありながら、同時に、一つに融合し」、遊動民の社会を背景に持つと、柄谷は推定している。そこで山人と固有信仰が交錯する。
この本で描かれた柳田国男によって、近年の通説である柳田像は、爽快に突き崩される。柳田学はマイノリティから「常民」へ転向したという見方を排し、膨張する帝国日本への批判として「一国民俗学」に立て籠もり、小日本主義に加担する柳田の姿が抽出される。
理論的な著作ならば、わずか数ページに削り込まれる柳田の像がこうしてたっぷりと書かれたのは、文芸誌「文學界」に連載されたからではないか。それ故に、柄谷の筆致はエッセイ的である。それで思い出すのは、文芸誌「文藝」で連載され、放棄された「注釈学的世界」という江戸思想論である。仁斎、徂徠、宣長がいた十八世紀の日本を、いまの柄谷に是非、世界の中に位置づけてもらいたい。