「コメンテーター」は世間を映す鏡/古市憲寿

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強い者叩きの国

 そう、色んなことを気にしていると、結局無難な発言ばかりをするようになってしまうのだ。だけど、無難なだけのコメントに価値はない。そこでちょっと気の利いたことや、踏み込んだ発言をしようとすると、今度は炎上が発生、世間やネット上でコメンテーターは叩かれることになる。
 だから多くのコメンテーターはどうするかというと、「強い者叩き」をする。弱者を叩くと怒られるが、強者はいくら叩いたところで怒られない。むしろ共感を呼ぶ。特定政治家へのバッシングも反撃までされるのは稀。「政府が悪い」「ねじれ国会が悪い」「既得権益が悪い」と言っている限りは反論される危険性はほぼゼロだ。
 こうして強い者叩きをした上で、「政治には何とかして欲しいですね」「社会で何とかできないものでしょうか」というように、抽象度が高い「政治」や「社会」への期待を添えておけば、それっぽいコメントが完成してしまう。これが偉そうなコメンテーターが量産されるメカニズムである。
 強い者叩きは無責任だ。いくら「政治」や「社会」を批判したところで、多くのコメンテーターはそれを変えることはできない。それは対案を出すとか出さないとかのレベルの話ではない。いくら対案を出したところで、「政治」や「社会」は一個人だけの力で変えられるようなものではない。
 そう考えると、実はこの国はコメンテーターで溢れていることに気づかされる。強い者を口では批判するが、自分では決して動き出そうとはしない。具体的な案を出すこともない。まさに「コメント」して終わり。ある事件に「コメント」したら、次は別の事件に「コメント」をする。ワイドショーのコメンテーターたちは、この国の「世間」と鏡のような関係にあるのだ。
 人は自分ができないことを他者に投影して批判しようとする。コメンテーターがこれだけ嫌われるのはおそらく、自分たち自身が政治や社会に対する当事者ではなく、コメンテーターに甘んじているからだろう。この国でしばしば強者、調子に乗っていそうな人物がバッシングに遭うのも、同じ理由だと思う。
 確かにコメンテーターは「日本をダメにした元凶」かも知れない。しかしそれはテレビの向こうで強者叩きを繰り返す人々だけの問題ではない。抽象的な強者へのバッシングをするしかない「社会」全体の問題なのだ(というこの偉そうな結論こそ、まさにコメンテーター語法の典型である)。

古市憲寿(ふるいち・のりとし/社会学者)
1985年東京都生まれ. 東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。慶応義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)。著書に『絶望の国の幸福な若者たち』『僕たちの前途』『誰も戦争を教えてくれなかった』等。

新潮45 2014年3月号掲載

〈特集〉日本をダメにした9つの元凶

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