家族愛という名の地獄 たとえ「毒」でも、「ボケ老人」でも――親を捨てられない長女たちの行く末は?

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『長女たち』刊行記念特集インタビュー  家族愛という名の地獄/篠田節子

――痴呆が始まった母のせいで恋人と別れ、仕事も辞めた直美。父を孤独死させた悔恨から抜け出せない頼子。糖尿病の母に腎臓を差し出すべきか悩む慧子……今作は三人の女性が人生の岐路に立った瞬間を描いた短編集です。『長女たち』というタイトルに込められた想いを教えてください。

 これまでも家族関係を描いた小説を書いてきましたが、今、「娘」という立場を正確に捉えた小説が少ないんじゃないかと思ったのが、この短編集を書いたきっかけです。お兄ちゃんがいても長女、一人っ子でも長女で、たくさんの女性が「長女」と呼ばれていますよね。その負担と責任が……特に親との関係で、どんどん重くなっていると実感することが多い。そこを捉え直せないかな、と。今までは、父親がいて、そのあとを長男が継ぐとされてきたのだけど、戦後の家庭ではどうしても父親の存在感が薄く、長男は優等生であるほどいい大学に進学していい会社に入って、結果、家を出てしまう。都会にいても、親の側ではなくて奥さんの実家の近くに住むことが多い。子育て中の家庭は特に。おかげで、女の子が親の老後を、家族を背負うことになるんですね。その孤独と苦労が、世間一般的に見逃されていると思うのです。

――当たり前だった家族の形が変わってしまったと。

 嫁が姑の介護をするのとは違うので、距離のとり方がすごく難しい部分があります。親にとっては「面倒みてくれて当然」という思いがありますし。「毒親」は論外として、いまや一般的になった「友だち親子」の親が老いて衰え、大きな負担を娘が背負わなくてはならなくなったときにも、それまでの関係性のなかで覆い隠されていた家族の病理がいっぺんに吹き出してくる。

――そこに関しては、この小説は間違いなくホラーですよね。

 そうそう(笑)。そういう意味で、きわめて現代的な形で親娘の関係の変遷を描くことができたと思っています。捨てるに捨てられないし、愛情ないとは言えないし、とはいえ、足を引っ張って欲しくない。義務感と責任感と罪悪感がまぜこぜになってしまう。だから長女なんだよね。

――主人公はすべて四十代の女性ですが、社会のバランスが変化する中でどう生きるか、という命題を三者三様に突きつけられています。『女たちのジハード』で篠田さんがお書きになった女性たちの、その後を見ているように感じるのですが。

 戦後、特に私ぐらいの年代だと、「女の子は大学なんか行かなくていい」みたいな価値観で、何年かお勤めしたら結婚して家に入るものだと言われていました。それが三十年前の男女雇用機会均等法でガラリと変わって、いきなり「女は自立」の時代になった。「自立せよ、女性達」の洗礼を受けながら若い時代を過ごしてきて、その一つの勝利の形として雇用機会均等法があったのだけれど、「勝ち取ったぞ」と言った途端にそのあまりの負担の大きさから、若い世代からは「いらないよ、そんなの」と言われ……(笑)。そんな世代の主人公たちは、自立しているからこそ、家族の負担を一人で受け止めなくてはならなくなっている。すごく難しい立場に置かれながら、どうやって自分自身の人生を築いていくのかというのが、今作のテーマかな。ハートウォーミングな家族小説の幻想では、厳しい現実に置かれた人たちは決して救われない。山本周五郎の世界とか「おとっつぁん、お粥が出来たわよ」と孝行娘が世話をするドラマは、親が病んでから二年で死んでくれた時代のお話。今や二十年介護がざらの時代です。3・11から三年経って、「家族」や「絆」を重んじる風潮がピークに達している気がします。でも、そういった状況の中で実際に出現する地獄をその目で見ろよ、と言いたい。

――仕事を持って稼いで、ちゃんと親の面倒もみる。それが、今後長女たちに課せられるスタンダードになるのでしょうか。

 いや、カンベンしてください。それを問い直す意味合いもあって小説にしたんですよ(笑)。家庭というカプセルの中で、長女たちの苦しみも重荷も、なかなか理解してもらえない。でも、「このままでいいはずはない」「自分ひとりじゃないんだ」と感じてくれる読者がいてくれたら……と願っています。

「波」2014年3月号 掲載(※この書評は単行本発売時に掲載された内容です)

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