「良心的出版社」を再吟味する/『物語 岩波書店百年史 2』

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 カバーの金の箔押しタイトルが眩しい『物語 岩波書店百年史』全三巻が書店に並んでいた。岩波書店創業百年記念の金ピカ本で、岩波茂雄が女学校の先生をやめて、神保町に正札販売の古本屋を開いてから既に一世紀が経過したわけだ。

 第1巻はさておいて、佐藤卓己の書いたこの第2巻と、苅部直が書いた第3巻(『「戦後」から離れて』)が圧倒的に面白い。それぞれ独立した本として十分に愉しめる。「正史」は別途刊行の予定ゆえか、善くも悪しくも日本の文化をリードした岩波書店の歴史を、自由な発想で俎上に載せている。金文字タイトルの外見に反して、御祝儀感はまったくない。この内容をよしとする岩波書店の太っ腹は、創業者譲りの賜物なのだろうか。

 佐藤卓己が対象とするのは、一九三〇年代から六〇年代までの岩波書店の絶頂期である。岩波文庫が戦場の兵士たちに読まれ、岩波新書が経営の根幹を支え、『西田幾多郎全集』発売に徹夜の行列ができ、「世界」が全面講和と安保反対を指導した時代である。それは、岩波茂雄が戦後初の文化勲章を受章し、社員の初任給が日本一となった時代でもあった。

 佐藤はまず、出版受難の時代とされる満洲事変から昭和十七年までが、岩波にとっての「高度成長期」だったことを確認する。新宿のムーラン・ルージュに岩波文子という踊り子が出現し、評論家の戸坂潤により秀才文化の別名として「岩波文化」が批判の対象にされる。それだけの拡がりをみせる岩波は、戦争景気の中で不良在庫を減らし、新刊は出せば売れ、本の買切制へと踏み切る。

 岩波茂雄は自らを「文化の配達夫」と謙遜したが、一高―東京帝大の同窓会ネットワークを存分に駆使し、出版物を通じて、「帝国大学とともに『教育国家』の両輪を構成」する存在となり、国家権力の中枢にもアクセスできる稀有な出版人となっていく。

 当時の左翼出版物として今でも語られる『日本資本主義発達史講座』刊行に際しては、発行人を別の社員名義にし、発売禁止になった分は原稿料を払わないという覚書を野呂栄太郎ら編者と交している。あらかじめ内務大臣に相談して、検閲で支障のないようにも取り計らった。それでも発禁をくらうのだが、経済的損失は抑えている。検閲の目を逃れるための難解な悪文の影響が、「日本の社会主義文献から大衆性を奪った」という指摘も佐藤は忘れていない。

 岩波茂雄が「筋金入りの皇室崇拝者であった」ことは、現在過小評価されている。それには、津田左右吉裁判で岩波が昭和十五年に起訴されたことが関係している。岩波から出ていた津田の四冊の著書が「皇室の尊厳を冒涜し」たとして発禁押収された事件である。岩波は収監されることも視野に入れて、熱海に惜櫟荘(せきれきそう)という瀟洒な別荘を建て、体力と気力の涵養につとめたほどだった(一審は有罪、二審は時効により免訴となった)。

 佐藤は津田事件を、従来のように単に暗い時代の言論弾圧の“勲章”とは見做さない。『西田幾多郎全集』の「日記」の記述からは、岩波側の政府への水面下の働きかけを発見する。津田自身は「政府が右翼の言論を抑えることができなかった」から起きたと認識していた。この場合の右翼とは、雑誌「原理日本」に拠った蓑田胸喜らを指す。

 面白いことに、原理日本社は岩波とは浅からぬ縁があった。蓑田が師事した三井甲之は岩波の学友であり、原理日本社創設メンバーの河村幹雄は岩波から日本主義的教育論のヒット作を出していた。蓑田の助手の一人は岩波に入社して『吉田松陰全集』を担当し、結婚の媒酌人は岩波だった。蓑田らを単純に敵役としてしまうのが躊躇われる人脈であり、そこに戦中の岩波の日本主義関係書の豊穣を重ねると、また違った岩波書店像も描けるのである(たとえば筧克彦の『神ながらの道』の出版や、満蒙開拓移民の提唱者・加藤完治への肩入れなど)。

 佐藤は一貫して、岩波と岩波文化人の戦時下の時勢への「抵抗線の所在を正確に確認」しようとつとめている。それゆえ、岩波にとっての不都合な事実をけっして見過ごすようなことはしていない。

 その筆致は、戦後の岩波の歴史にも適用される。内心では戦争に反対しながら、とりたてて行動に移さず沈黙していた知識人の戦後の感情を、丸山眞男は「悔恨共同体」と名付けた。その象徴が「世界」であった。佐藤は評論家の河盛好蔵が「世界」に苦言を呈した言葉を拾ってくる。「同じ旋律ばかりを繰り返していると、平和とか自由という大切な言葉の持つ内容」が安っぽくなっていく、と。

 岩波読者の多数派である教育関係者に向けては、岩波講座『教育』の編集委員で、日教組の指導者であった勝田守一東大教授の論文を検討し、「アジアを裏切った」罪は反省されても、少国民である「子どもを裏切った」罪が脱落していることをあぶりだす。こうして「良心的出版社」という像は、徹底的に再吟味されるのだ。ただし、愛情をもって。

 私の枕元に積ン読中の本に岩波の『宮崎市定全集』があった。装丁の函は地味だが、布装の本の背文字は金の箔押しである。では、装丁のカバーが金文字の岩波の本は今まであったのだろうかと、神保町の岩波創業の地にある信山社(岩波ブックセンター)に出かけてみた。棚にざっと目を通し、二冊発見した。一冊は先ごろ亡くなった辻井喬の自伝小説『遠い花火』、もう一冊は書下ろし時代小説文庫のスター佐伯泰英のエッセイ集『惜櫟荘だより』だった。佐伯泰英は岩波が手離した熱海の惜櫟荘の現主人である。

[評者]平山周吉(雑文家)

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