牡蠣とジャムとひとりの時間/『英国のOFF』
英国の紳士淑女は、漱石の時代から日本人の憧れだった。粋な紳士服、アフタヌーンティー、イングリッシュ・ガーデン……。そんな昔ながらのイメージに一石を投じるのが、入江敦彦さんの『英国のOFF』。ロンドンに二十年以上暮らす入江さんの視線は、下町っ子(コックニー)に暖かく寄り添う。10パーセントに満たない上流階級とブルジョワの文化ではなく、女王陛下の国の大部分を占めるワーキングクラスの暮らしを九つの「OFF」として紹介する。
「OFF」とは「休み」のことだが、〈ONの反対がOFFなのではなく、価値観を社会から個人に切り替えること〉と入江さんの定義は奥深い。
「OFF1」では、テムズ河口北岸のリー・オン・シーを訪ねる。かつては、長い休みのとれないロンドンの労働者が、土日の午後に気分転換にやってくる場所だった。彼らの住むロンドン東部の下町(イーストエンド)から乗り換えなしで一時間と、気楽に来られるこの町は、お金も時間もない彼らにとって手頃な距離。そこに、〈甲殻類をついばみにやってくる〉のだそうだ。コックルスという小粒のトリガイが美味しそう。〈たっぷりジュースを含んでおり、歯応えと共に舌の上で風味がぱちんと弾ける〉アサリのような剥き身を、ビニール袋にどっさり買って、茶色いモルトビネガーをザバザバかけ、エールを片手に食べる。わたしもロンドンで育ったけれど、未知の世界だった。
リー・オン・シーのビーチハウス
ケント州ウィチタブルの牡蠣にも驚いた。ローマ皇帝も絶賛したほど古い牡蠣の産地で、味に絶妙のこくがあるのだそう。〈表面張力のごとく膨らんだ身は、蜜に浸したように光〉る。そのエロティックな牡蠣を、〈薄絹が肌を撫でてゆくみたいな感触〉の濃厚な地エールに合わせる。章末に付された地図と案内によるとカンタベリーに近いようだから、今度、大聖堂を詣でる時にはぜひ寄り道したい。
ウィチタブルの牡蠣
日常のささやかな楽しみも「OFF」となる。男三人で一年分のジャムを作る「ジャムOFF」。ごっつい男たちはこの日のため空き瓶を貯めこみ、ダークスーツを着込んで、鋭い眼差しで市場へ向かう。キッチンの色鮮やかな写真を眺めていると、果物を煮詰める甘いにおいがたちこめ、調理中のがやがや、鍋のぐつぐつが聞こえてくる。
ジャムづくり
わたしの知っているOFFもあった。ハムステッド・ヒースは、少女時代、らっぱ水仙の咲く丘を草滑りした思い出がある。手入れがされすぎていない半野生の野原や森では木苺もとれる。こうした公園は、そしてベンチは、入江さんも書いているように、イギリス人にとって何より必要な場所。彼らは互いに「ひとりの時間」を尊重する。気のおけない仲間との時間も大事だけれど、ひとりでいる時間がないと生きてゆけない。だから、ぼーっとするための見晴らしの良いベンチや、ぶらぶら歩く森や、一杯の紅茶を大切にする。庶民だけでなく、女王陛下もきっとそう。
ハムステッド・ヒース
英国のティータイムに、日本の茶道のような厳密な作法や淹れ方があるというのは美しい誤解と喝破するのも小気味良い。安いティーバッグなのに、イギリスのお茶はヨーロッパのどこで飲むよりも美味しい。胚芽ビスケットを齧りながら、大きなマグカップに顔を埋めるとホッとする。そう。これが、英国のティータイムだ。
入江さんお気に入りのリージェンシー・カフェ