人生に裏打ちされた切実な表現/『生きていく絵』
東京都内の精神科病院で安彦講平氏を中心として長年、開かれてきた〈造形教室〉に集まる人たちとその作品を通して、表現することの意味を問いかける。
著者は近現代文学の研究者で、美術は畑違いの分野ともいえるが、ある日、地元の図書館に立ち寄ったときに出会った一枚の絵の前で、筋肉が固まり身動きが取れなくなったという。〈苦しみを凝視し、さらけだすことを宣言〉する絵の重みに衝撃を受け、「強迫性障害」をもつその絵の作者との会話をきっかけとして、安彦氏の〈造形教室〉に通うようになる。
著者が受けた衝撃は、この本に紹介されている数々の絵の図版を通して読者にもダイレクトに伝わってくる。喜怒哀楽すべての感情を封じ込めたような、凄味のある美しさをたたえたコラージュの大作。厚く絵具を塗り重ねた画面の奥に、閉ざされた黒い扉を描いた油絵。ボールペンでかたどった一枚の病葉(わくらば)には、表面に無数の斑点が描かれている。絵の作者にはリストカットの自傷癖があり、ペットボトルにためておいた自分の血を指先につけて描いた斑点だとあかされる。
〈障害者文化論〉を研究テーマとする著者は、たびたび教室に通い、取材というより運営を手伝いながら一人ひとりと会話をかわしてきた。それぞれが生きてきた時間とその人の病と作品とを、トンネルを掘りすすむようにして、ていねいに紹介する。
人と作品を切り離さずに語る一方で、病気と表現内容のかかわりを類型化することもない。その人の人生に裏打ちされた切実な表現があり、その表現も時間とともに変化する。著者がいうように、〈人間が生きること自体、ある意味では表現の連続〉であり、表現がまたその人自身に影響を及ぼす。
安彦氏の〈造形教室〉は治療のために開かれるものではない。症状の軽減が見られることはあっても、そのこと自体が目的ではなく、集まってくるのはみずからの意志で表現することを選びとった人たちだ。作品を集めての展覧会がたびたび開かれ、〈夜光表現双書〉という出版物も発行されているが、それらは経済行為として企図されたものでもない。
治療でもなく収入のためでもなく、では何のために表現するのか――という問いに、著者は〈癒し〉という言葉で答える。乱用といっていいほど軽々しく使われるなかで一般には手垢にまみれたように見えるが、〈人が自らの苦しみと向き合い、表現を通じて外部へと放出することで生きる支えを見出していく営み〉としての〈癒し〉という言葉を、安彦氏も著者も安易に手放すことはせず、本を読むなかでこの語のもつ本来的な力についても改めて考えさせられた。