偶然の出会いに導かれた人生/『首里城への坂道』

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 与那原恵さんの著作を読むまで鎌倉芳太郎という人のことを知らなかった。大正末期から昭和の初期にかけて、琉球の芸術や文化財について広範な調査をし、膨大な資料を残したその功績は、戦後の首里城復元や紅型(びんがた)(沖縄独自の型染め)復興に活きている。鎌倉自身は六十歳になる頃、紅型の染織を始め、わずか十五年で人間国宝に認定されるというあまり例のない経歴の持ち主でもある。
 偶然の出会いに恵まれた人生だ。香川県に生まれ、東京美術学校を卒業して教師として赴任した沖縄で、豊かな琉球文化に出会う。同時にそうした文化の、すばらしい導き手とも次々、知り合った。ジャーナリストの末吉麦門冬(ばくもんとう)、のちに〈沖縄学の父〉と呼ばれる伊波普猷(ふゆう)。下宿先の女あるじ、座間味ツルからは美しい首里言葉を教わり、このことはのちの調査で非常に役立つ。
 二年の赴任期間が終わって東京に戻った鎌倉は、建築家伊東忠太の指導を受ける。伊東の紹介で、実業家赤星鉄馬が設立した学術財団「啓明会」の研究費補助を受けて調査を続けられることになった。人の縁に助けられながら、古い建物や御後絵(おごえ)(歴代王の肖像画)など貴重な美術工芸品を写真におさめ、古文書を書き写し、紅型の型紙を収集した。
 大正十三(一九二四)年に、首里城正殿が取り壊されそうになったときこれを阻止したのも鎌倉である。沖縄の新聞で記事を読み、急いで伊東のもとへ走った。元内務大臣の甥である伊東は持ち前の政治力を発揮し、神社局長に面会して取り壊し中止を要請、すぐに中止命令が沖縄県庁に打電された。
 だが鎌倉が愛した古い街並みや貴重な文化財はすべて沖縄戦で焼き尽くされてしまう。皮肉なことに、だからこそ鎌倉の仕事の重要性は戦後になって認識されることになる。
 戦争中、鎌倉は大量のガラス乾板を東京の自宅防空壕に保管していた。本土復帰前年の昭和四十六(一九七一)年、三十五年ぶりに沖縄を訪問した鎌倉が講演中に乾板の存在を明かしたとき、会場にいた新聞記者からどよめきがもれたという。乾板をもとにプリントした写真で「50年前の沖縄」展が、翌年開かれ、失われた郷土の姿を見たいとつめかけた観客の熱気が博物館をおおった。
 著者は、さまざまな人とのかかわりの中で鎌倉の仕事を描き出す。〈沖縄学の青春〉時代にいあわせ、そこで出会った沖縄の人々は貴重な資料を惜しみなく提示し、複写や筆写することを許した。いつか立ち去る、きまじめな本土の若者に託されたさまざまな思い。その思いを深く受け止めていたからこそ、鎌倉はのちに『沖縄文化の遺宝』として結実する膨大な調査研究をなしえたのだ。

[評者]佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

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