「真夏の日のテロル」の語られざる側面/『実録 相沢事件』
二・二六事件が「雪の日のテロル」だとするなら、それよりもちょうど半年前、昭和十年八月十二日に起きた相沢事件は「真夏の日のテロル」だ。陸軍のエリート、永田鉄山陸軍省軍務局長が相沢三郎中佐により執務中の局長室にて斬殺された事件である。局長室は正門からは遠くむしろ裏門に近く、相沢がタクシーで裏門に乗り付けた際には、咲き誇るサルスベリの古木が目に入ったに違いない。二つの事件以降、日本の歴史が急傾斜していったのは周知の通り。
著者は以前、著書『禁断 二・二六事件』において、二・二六事件の語られざる側面、宮城を舞台に進んだ未遂の軍事行動のディテールを描いた。すなわち青年将校らは重臣襲撃、諸官庁占拠を目指しただけでなく、決起軍の一部を宮城の中に警衛の名目で潜ませ(これは成功)、内外呼応するかたちで改めて上奏隊を派遣し、天皇に決起の趣旨を直接訴える計画であったというのだ。「雪の日のテロル」は巷間理解されるより、はるかに広範・深刻なものであったらしい。事件への天皇の断固たる態度や、天皇呪詛にも近い決起将校の言葉なども、別様の光を帯びてくる。
本書では、相沢事件を二・二六事件の緊密なる前史と位置づけつつ、やはり相沢事件の語られざる側面、処刑(十一年七月三日)直前に起こったであろう相沢のクラッシュ劇(内面崩壊)が大胆に描かれ、跡づけられる。そもそも永田斬殺の直接の発端は、十年七月の皇道派・真崎甚三郎教育総監の更迭にある。「三長官(陸相、参謀総長、教育総監)人事は三長官の合議による」との内規に反し、統帥権干犯にほかならない。ウラには統制派・永田の策謀がある、と相沢が思い込んだことだ。
その相沢が処刑前日の二日、石原莞爾の面会を乞い「統帥権は干犯されておりませんでした」と涙ながらに訴えたという。後に禅僧・大森曹玄となる右翼活動家・大森一聲の証言である。
統帥権干犯がないのなら誅殺の大義も霧消する。結局著者は真崎による教唆、「恩赦が必ずあるから」という狡猾なそそのかしが、相沢の直情径行の性向をいっそう増幅させ、事件に至らしめたと見る。
桜会に始まる昭和陸軍の国家改造運動。それらへの北一輝の理念的影響力。佐官級と尉官級(青年将校)への国家改造運動の分裂。さらには陸士同期の小畑敏四郎派と永田鉄山派との別名でもある皇道派と統制派との対立。相沢の軍事法廷が中途で非公開になり思想戦の場として使えなくなったため、青年将校らは急遽二・二六事件を急いだこと。同じく怪文書が飛び交うほど言論が有効だった時代から直接行動の時代への変転……。
やや晦渋ながら、読み応えは十分。
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