絶妙な距離感が生み出す写真【書評】
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」。そううたったのは金沢出身の詩人室生犀星である。梅佳代は、最初の写真集『うめめ』に「早く柳田村(評者注・現石川県鳳珠郡能登町)からでたくて、カメラマンになればイチローとか芸能人と結婚できる」、そう思って写真学校に入学した、と書いている。念願かなって村を離れ、写真学校のある大阪、そして東京と住まいを移しながら、たびたび戻っては故郷の人たちを撮り続けてきた。
最初の一枚は、グラウンドに水をまく二人の野球部員が写っている。ホースの先端から勢いよくほとばしる水がゆるいS字カーブにゆがんで空へと向かい、その下にかすかに虹がかかっている。
当の少年たちもたぶん気づいていないであろう一瞬をとらえる、この動体視力の良さはいったい何なのか。梅佳代が大好きなイチローみたいに、連続した時間の中の決定的な瞬間が、彼女には動きを止めて見えているのではと思えてくる。たとえ同じものを眺めていたとしても、自分には見えないような何かが彼女の写真にはいつも写っていて、だからはっとさせられるのだ。
「梅佳代ほどカメラを手元から離さない写真家を僕は知らない」。彼女の最初の発見者で、編集者・写真家でもある都築響一は梅佳代の個展の図録にそう書いた。「ひとりだけで、カメラを抱えて歩きながら、頭と目と、シャッターを押す指を直結させる回路をつくってきた」。だからこそ、彼女は日常の中にひそむ小さなシャッターチャンスを逃さない。
近所の子供たち。中学生。じいちゃんとばあちゃん。妹。実家の犬。『のと』に写っているのは過去の写真集でも取り上げられてきたような対象で、彼ら彼女らが、とびきりの変顔で白目をむき、ピースサインを出し、ときにはぽーんと宙に浮いていたりもする。
被写体はカメラがあることを意識していないわけではない。むしろ意識しているからこその白目でありピースサインなのだが、カメラを向けられることを受け入れている、のびやかな空気が伝わってくる。写真家梅佳代は、異物としての気配を消しながら同時に被写体の注意を引いて、それしかないと言いたくなる表情を相手から引き出す。もしかしたら、その一枚を撮るまでにはおそろしく長い時間が流れているのかもしれない。
故郷は遠くて近い。近くて遠い。高校を出てすぐ能登を離れた梅佳代は、能登の人であり能登の人でない。内にいながら外からも眺める独特のポジショニングで、相手のごく近くまで寄ることもできるし、変わらないものを見て新鮮に驚くこともできる。彼女の写真の撮りかたに通じる故郷への絶妙な距離感が、はっとさせる写真の一枚一枚に反映されている。