ホラーへの秒読み みうらじゅん/私の名作ブックレビュー【書評】
自分の今の年齢は、松本清張の小説の中では初老の域に達している。刑事ではベテラン、会社では部長クラス、自営業では苦労を重ねようやく余裕が出来、そろそろ愛人関係で揉めに揉め出す頃だ。人生は一度っきり。うまくやっていきたい。それには掴んだ“幸せ”を死ぬまでキープすることだ――
松本清張モノならもう何だっていいと思っている。たくさん本も出ているから一生、それだけ読んでいても構わない。オレにとってそれは推理小説でも、社会派小説でもない。言うなればホラー小説に近い。自分の中にも潜んでいるホラーな部分が松本清張モノを読むと引き出されドキドキしてしまう。
社会は弱者と強者。浮かばれない者は妬(ねた)み、嫉(そね)み、恨む。一度でも浮かれた者は地獄の底まで沈む。人間が勝手に作り出した“幸せ”という幻想を、松本清張は小説の中で引っ張り回して最後、木っ端微塵に破壊する。そもそも人生とは苦なんだと、仏教観がそこかしこに漂っているのである。
このホラーを味わうためにはある程度年齢を重ねた方がいい。結婚もし、守りたいものがたくさんあった方がいい。文庫のカバー裏の解説に“日常生活に潜む恐ろしい生の断層”とある『眼の気流』を手始めに読まれることをお勧めする。そこにはたくさんの幸せが破壊される様が描かれている。幸せだと感じた瞬間がホラーへの秒読み。覚悟して欲しい。