「世界史ブーム」の楽しみ方/『二十世紀論』
はからずも同時に出版された二冊の新書、福田和也『二十世紀論』と小谷野敦『日本人のための世界史入門』は、それぞれ二十世紀の百年、古代ギリシャ以来の三千年という対象とする時間枠の長短こそあれ、ともに全体が俯瞰される世界史であって、個別なテーマ史、各国史ではない。
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しかし本来雑多で多様な世界史が、確かなまとまりをもって語られるのは、歴史の根底に明確なる意志、目的、原理が認められる場合で、普通そうした歴史の見方はマルクス史観、皇国史観、陰謀史観(ブッシュの“悪の枢軸”史観ほか)などと呼ばれて現在、評判がよろしくない。いずれからも手痛いしっぺ返しを経験しているからだ。歴史哲学と呼ばれるものも、そうである。
なのにジャレド・ダイアモンドの文明史(『銃・病原菌・鉄』『文明崩壊』など)やW・H・マクニールの本(『世界史』)がブームとなり世界史に関心が集まるのは、個人主義(自由主義)への反省からサンデルらの全体重視型の「共同体主義」(コミュニタリアニズム)が流行するのと軌を一にしていよう。
それでも帝国主義や資本主義、近代科学技術、総力戦的国家運営といったものが実際にも世界を一つにまとめつつあった二十世紀の百年を、一つの視野に収める困難さは、まだしも想像がつく。第一次大戦を二十世紀の分水嶺と捉え、第二次大戦はそれの小さな余波と見る見方など、なるほどと思う。それに対し、古代ギリシャとインディアン、武士文化とイスラムなど互いに無縁のものから成り立つ三千年世界を一つに束ねる困難さは、はるかに想像を絶する。『二十世紀論』が真っ当に見え、『世界史入門』がほとんど無手勝流に近い印象を与えるのはそのせいかもしれない。
加えて小谷野は、歴史に必然性はなく、まったく偶然により進展するという。であるなら歴史を統一的に描くことはもともと不可能で、さまざまな逸話の集積、エピソード集にならざるをえない。初めから雑学として楽しめばいいのである。ほんの一例を――。
西洋中世では「医学、法学、修辞学(文法学、修辞学、論理学と紹介される場合が多い)」はリベラル・アーツと呼ばれたが、これは教養学部のようなものを指すのではなく、奴隷が自由人になるために必要な学問の意味だそうだ。知らなかった。
それにしても両著とも論述の途中に、テーマと関連する映画や本が数多く紹介されるのは、読んでいて参考になる。