運慶仏16体増えて、UNK47誕生か? 山本勉×橋本麻里[「運慶ナイト」より]

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 鎌倉時代の仏師・運慶を巡る対談が、8月某日、荻窪のカフェ「6次元」で行われた。美術史家の山本勉さんと、ライターの橋本麻里さん、『運慶―リアルを超えた天才仏師―』の著者でもある二人のトークのダイジェストをお届けしましょう。

橋本 最近は仏像ブームと言われます。

山本 日本では昔からそうです。平安時代後半には、はっきりとブームがありました。お寺巡りをする貴族にとって、仏像は信仰の対象というだけでなく、見て楽しむものでもあった。アジアの仏教国の中で、日本は特別に仏像好きな国。6世紀に大陸から仏教が入ってくるまで、日本人の信仰の対象は人間の格好をしてなかった。そこに拝むべき人間の姿が現れた。仏像が、人間のヒエラルキーの上にある人間の姿をしたものとして位置づけられたんです。

橋本 つまりありがたいというより、かっこいいとかすごいとか、そんなふうに受け取られたということでしょうか?

山本 おそらく仏教は外来の一番進んだ文化、ファッションだったのでしょう。だから仏像を造る技術者・仏師を抱える人は、いつも日本の政権の中心にいた人なんです。また運慶のように有名な国民的仏像作家がいる国は、日本以外にありません。運慶以前には定朝という人がいて、仏画から抜け出したような和様の仏像を確立していました。

橋本 定朝は定朝で、11世紀の貴族の信仰生活にフィットした様式だった?

山本 そうです。そして運慶も定朝の流れのひとつ、奈良仏師の中から出てきたのですが、運慶のお父さんがやり手で、自分の息子の才能を見抜いて、プロデュースしていったんですね。

橋本 運慶のすごさ、天才性はどのあたりにあるのでしょう?

山本 運慶は、非常にリアルな人間の顔を仏像に取り入れました。まさに鎌倉時代、新しい政権をとった武士の姿がそのまま仏像になった、そう感じた人は多いはずです。また全体の構成の中での体の動き、そういったものを非常に巧みに表現できる人でした。動かすことも、動きを止めることも、鑿一本で自由にできた。

橋本 ただ、運慶仏は、かならずしも解剖学的な意味でリアルではないですね。

山本 写実的というより、実在感ですよね。運慶の像は、定朝のように目を閉じて思い浮かべるようなものではなく、我々と同じ空間に確かなものとして存在する、そういう意味でのリアルな造形でした。そんな運慶仏が出て来た理由のひとつには、武士の台頭、社会的変化があったと思います。

橋本 先生が一番好きな運慶仏は?

山本 円成寺の大日如来ですね。大学時代に古美術研究旅行で2週間、奈良・京都を巡ったものの、毎晩お酒を飲んで昼間はぐったりしていたのですが、唯一目が覚めたのが、これに出会ったときなんです。初めて仏像というものは、人体彫刻なんだと思った。今考えればあたりまえのことなんですが。その作者のことを勉強したいと思って、以来40年近く。

橋本 調査活動を続けていらっしゃる。

山本 僕の論文で運慶仏と認められたこともあって、当時は2ちゃんねるで「これを解体して運慶じゃなかったら、山本は腹を切れ」って書かれました(笑)。

橋本 この本の最後にも、まだあるかもしれない運慶という文が載っています。

山本 京都の浄瑠璃寺に伝来した十二神将(現在は東京国立博物館と静嘉堂文庫美術館に分蔵)と、興福寺南円堂の四天王像。運慶作と認められれば、一気に16体加わる。今31体が確認されているから、合わせると47。昔風に言えば四十七士、今風に言えばUNK47ですかね。
 運慶は、仏・菩薩とそれ以外の人間に近い像をはっきり作り分けていた。同じ武装姿の十二神将と四天王も、それぞれそれとわかるように作れる。それこそが運慶だなと思います。

山本勉(やまもと・つとむ 美術史家)(Twitter)、橋本麻里(はしもと・まり ライター、編集者)(Twitter

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