100回記念で再確認する「天皇」「ヤマト」「日本人」の正体

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 連載もいよいよ100回だという。約8年、良くここまで続いたものだと思う。編集長・内木場重人氏、前編集長・安河内龍太氏の御尽力のおかげだ。

 そこで記念すべき今回のテーマは、ずばり「国際人のための古代史」にする。初心に戻り、日本人の正体を世界の人びとに説明するためのヒントを、まとめておこう。

守り通した「多神教信仰」

 日本人は、日本の歴史に無頓着だ。「なぜ天皇を推戴しているのか」「神道とは何か」と聞かれても、答えることはできないだろう。これでよいわけがない。

 日本人は不思議な民族だ。たとえば人口に占めるキリスト教信者は1%前後と、きわめて少ない。これは、世界的にも、異常な数字で、原因は、「自覚のない信仰」に求められそうだ。

 海の外から見ると、日本人は頑なに、三つ子の魂を守りつづけているように映るらしい。コア(核)がしっかりとして揺るがないというのだ。

 じつは日本人は、「地球上からほぼ絶滅しかけている多神教徒」なのだ。これがじつに重要な意味を持っている。先進国の中で多神教的発想を守りつづけた日本は、異端の存在だからだ。

 大航海時代からあと、キリスト教徒たちは、「野蛮人を教化する」という大義名分を掲げ、多神教世界を植民地化していった。そして、最後にたどり着いたのが、極東の日本列島だった。ところがここで日本は踏ん張り、植民地化を免れ、多神教的な信仰形態を捨てなかったのである。

 キリスト教徒は、自身を唯一絶対の神に似せてつくられた者だと信じる。そのため人間は、大自然を改造する権利を与えられていると考える。これに対し多神教は、ありとあらゆる物や現象に精霊や神が宿るという発想だ。また、神は「大自然そのもの」で、大自然(神)は人間に恵みをもたらす一方、嵐や大雨(干魃)、地震、火山の噴火となって、人びとを苦しめる。多神教の神は、祟る恐ろしい鬼でもあった。神の本質は恐ろしい鬼なのだ。だから人びとは、必死に神を祀り、怒りを和らげてきた。そして、大自然の脅威にはかなわないとあきらめ、ひたすら現世利益を求めてきた。これが、神道の原理である。

 多神教世界の住人は神と大自然に恭順し、かしこまった。一神教からみれば、大自然を克服できない多神教は、「迷信に満ちた野蛮な信仰」に思えるようだ。だから一神教徒は正義を掲げて押し寄せ、多神教世界はしばしば圧倒され、蹂躙されてきたのだ。

「渡来人が縄文人を圧倒」ではない

 ヤマト建国と天皇誕生の歴史も、多神教世界ならではの事件だった。そこに至るまでの経過を整理しておきたい。

 ヤマト建国にまつわる古い歴史観は、次のようなものだった。

「紀元前3世紀頃、大陸や朝鮮半島から稲作を携えた渡来人が押し寄せ、1万年続いた縄文社会は壊滅的打撃を受けた。ちょうどこのころ、中国は戦乱の時代だったから、遺民が海を渡ってやってきたと、考えられてきた。土器の様式も変わり、金属器も使うようになった。これが弥生時代だ。弥生時代後期には倭国大乱を経験し、3世紀後半から4世紀にかけて、ヤマトが建国された……」

 このように、日本人は渡来人に席巻され、ヤマトの王(天皇)でさえも、朝鮮半島からやってきたのではないかと推理されてきたものだ。しかし、これらの常識は、覆されつつある。

 まず、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5730年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)によって、縄文時代は今から1万6000年ほど前にはじまり、また弥生時代のはじまりも、紀元前10世紀後半に改められた。

 年代観が改められ、これまでの歴史観も疑わしくなってきた。大量の渡来人が押し寄せたかどうかも、分からなくなってきたのだ。物証もこの考えを裏付けている。

 北部九州沿岸地帯の最初期の水田を作った人びとは、渡来系ではなく、縄文人だった可能性が高い。残された遺物が、縄文的だったからだ。縄文時代、すでに陸稲が作られていたことも、明らかになってきた。さらに、その後、支石墓という朝鮮半島の埋葬文化が移入されるが、埋葬された人が渡来系ではなく、縄文系だった。つまり、「水田稲作は先住の縄文人が選択していた」ことが分かってきた。しかも、縄文土器と弥生土器の「境目」がよくわからず、「渡来人が新たな土器文化をもちこんだ」のではなく、生活様式の変化とともに、土器の形も変わっていったことも明らかになった。

 縄文人特有の文化は、いくつも継承されていった。1つの例に「抜歯」がある。弥生時代の墓に埋葬された人びとの遺骸に、抜歯の痕跡があったのだ。渡来人が縄文人を圧倒したわけではなかったことがわかる。

 もちろん、こののち、大陸や半島から、戦乱と飢餓から逃れた人びとが海を渡って来た。それでも、日本人の習俗、文化の基礎が、縄文時代に築かれていたことは間違いない。その証拠に、日本語の原型はすでに縄文時代に完成し、今日まで継承されてきた。日本列島に、少しずつ渡来系の人びとが混じり込み、渡来系の遺伝子の割合は増えていったが、渡来した人々は「縄文的な習俗に同化」していった。こうして、「日本列島人」が誕生したのである。

結局戻った「弱い王」

 多神教世界の住人には、強大な権力者の発生を拒むという習性がある。ただし稲作が始まり、人口爆発を起こし、土地と水利を求めて争いが増えると、地域ごとに強い王が求められ、弥生時代後期に争い、混乱した。とはいっても、いつの間にか、日本列島の大部分がゆるやかな絆で結ばれていったのだ。じつはそれが、ヤマト建国だった。3世紀の纒向(奈良県桜井市)に、各地から人びとが集まって、埋葬文化を持ち寄り前方後円墳が生まれた。そして、4世紀には、日本各地に前方後円墳が受け入れられ、ここに、ゆるやかな連合体が形成された。このとき担ぎ上げられた王(のちの天皇)は祭司王であり、連合体の調整役だった。

 連載中述べてきたように、王の執り行う祭祀は、王の姉妹(あるいはミウチの女性)が主役で、彼女たちが巫女となり神に仕え、神から得たパワーを王に放射した(妹=いも=の力)。また、巫女に下された神託は、巫女の母系の実家の意志であり(ここが大切)、母系の実家が、実質的に権力を握るという巧妙な統治システムである。

 その一方で、王は神聖な存在で神と同等の力を持つ者と崇められた。昔話で鬼退治を童子に委ねたのは、童子が荒々しい生命力を宿した神(正確には鬼)に近い存在と見なされていたためだ。童子は「鬼と同等の力がある鬼」と見なされていた。一方、神を祀る天皇も同じで、神聖な存在だが、鬼そのものでもある。雲霞のごとき大軍でも、錦の御旗に震え上がったのはそのためだ。天皇は神で、神は鬼であり、くどいようだが、神と鬼は災難をもたらす大自然と同じなのだ。

 こうして、ヤマト建国の意味、日本人の信仰の意味、天皇の正体は明らかになったと思う。もちろん、時代の変化とともに、天皇や院(上皇)が実権を握る時代も到来するが、長続きせず、結局「弱い王」に戻っていくのだ。また、織田信長のような独裁者は、排除される。日本人は、そういう民族なのだ。

神の訴え

 このような日本人の多神教的発想は、なかなか世界から理解してもらえないだろう。しかし、大自然にひざまずき共存する多神教的発想は、少しずつ見直されてゆくだろうし、日本人が胸を張って世界に発信していくべき発想だと思う。多神教は、迷信ではない。多神教的信仰をかたくなに守りつづけてきた日本人の本当の出番が、これからやってくるかもしれない。「人間の編み出した正義(独善)の限界に、早く気付け」と、神(大自然)が、訴えているように思えてならないのだ。

関裕二
1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)、『「死の国」熊野と巡礼の道: 古代史謎解き紀行』 (新潮文庫)など著書多数。最新刊に『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』(新潮新書)、『古代日本人と朝鮮半島』(PHP文庫)がある。

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